みんな

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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みんなとは、日本語特有の、自分の主張を補強するための言葉である。は存在しない。

概要[編集 | hide | hide all]

何かを主張したい時、日本人はその根拠として、「みんながそうだから」という言葉を使う。みんなは、多くの場合everybodyに訳すことが可能だが、この前提に立ち、いざ「ではみんなとはなのか?」と空気解読障害の人間が尋ねると、「みんながそうだから」と主張した人は大抵言葉に詰まる。本当に「みんな」だとしたら、主張者は知っている限りの名前を全員挙げればそれで終わりのはずなのに、何故か揃って返答に詰まり、よしんば詰まらずとも、数えられる人はせいぜい十指にも満たないので、すかさず「それならこの人は違うんじゃないの?」と反証される羽目となる。

こうしたことから、「みんなそうだから」と述べて主張を補強する場合のみんなは、英語everybodyにはない、日本語特有の意味を持つ言葉だと考えられる。しかし、「みんなそうだから」と主張する本人ですら、「『みんな』とは(誰ではなく)なのか」と問うても、やはり言葉に詰まってしまう事が多い。このため、この言葉は、日本人にとっても説明が困難だと考えられ、専門家達はは長らくこの言葉の意味を考察してきた。

本記事では、この「みんな」の意味として挙げられる様々な仮説を紹介する。

仮説[編集 | hide]

「みんな」=[編集 | hide]

日本では古来、アミニズムが根付いており、最もポピュラーな宗教の一つである神道でも、「八百万の神」が存在するとされている。このこと及び「みんな」が絶対的な権威として持ち出されること、及び旧来の日本人が「みんな」を持ち出されるとあっさりと従う傾向があること[1]から、みんなとはつまるところこの「八百万の神」に他ならない、という説が存在する。神道の信者の多くは、この説を、恰も教義の一部であるかのように信じている。

「みんな」=everything説[編集 | hide]

上記の神説から派生したのが、「みんなそうだから」の「みんな」が実はeverybodyではなく、everythingであるという説である。「八百万の神」は、人々を含むありとあらゆるものに宿るため、もう一歩踏み出せば神道の世界観は汎神論に近付く。こうして、世界をいったん汎神論的に扱ってから、抽象的な神を取り除くと、「みんな」=everythingであるという仮説に至るのである。思想や汎神論に詳しい専門家の支持が厚い。

「みんな」=[編集 | hide]

「みんなとは誰か」と問われて答えられないのだから、「みんなそうだから」の「みんな」は嘘、あるいは誇張でしかないと斬り捨てる仮説である。の存在を否定し、自らの関知しないものの存在を一切信じない極度の無神論者等は、この考えを支持している。

「みんな」=「世間様」説[編集 | hide]

「みんな」とは抽象的な大衆であり、要は世間であるとする仮説。抽象的な集団だから、具体的な人名は中々答えられないのだという立場を採る。しかし、この「世間」という言葉もなかなか意見の分かれる癖の強い言葉なので、結局のところはトートロジーを明らかにしたに過ぎない、という反論も存在する。支持層は、自称無宗教の典型的な「一億総中流」家庭の構成員が中心である。

「みんな」=常識[編集 | hide]

「みんな」が抽象的な大衆であるとしても、それはあなたがイメージする主観的な「大衆」であって、客観的な大衆ではない。こうなると、この「大衆」が「そうである」のはあなたの頭の中の常識が根拠となる。こうして結局のところ、「みんな」とはある種の妄想だということになるが、「みんな」を持ち出す本人ばかりは、それが妄想だとは気付かず、嘘をついている自覚もない、という訳である。支持層は、「みんな」の考察を専門とはしないインテリに多い。彼らは知ったかぶりの傾向が強く、何でもかんでも常識にしてしまうからである。

結論[編集 | hide]

上記の諸説いずれも、決定的な定説と呼べるほどのものではない。「みんな」とは、それだけ茫漠としている言葉なのである。しかし、その分だけ、とりあえず持ち出せば、日本人に対する主張としての説得力を増すことができるのだけは確かである。それ故、みんな「みんな」という言葉をどこかで、大抵都合よく持ち出して使っている。

脚注[編集 | hide]

  1. しかし、これは20世紀までの事で、最近の日本人はそうでもない。