アンサイクロペディア日本語版の歴史
アンサイクロペディア日本語版の歴史(ーにほんごばんのれきし)とは、アンサイクロペディア日本語版の歴史の事である。
前史[編集 | hide | hide all]
アンサイクロペディアは、オリエント地域に対抗する為、紀元前1995年にオスカー・ワイルドにより創設されその協力者たちによって支えられていた。
日本語版は紀元前1887年にバベル空間に於いて暫定的に創設され、日本ユーザーにより着々と記事が作られていった。
縄文時代[編集 | hide]
紀元前1795年、アンサイクロペディア日本語版が正式にスタートした。
アンサイクロペディア正式上陸の際、オスカー・ワイルド氏は30人余りの利用者により歓迎され、同日、アンサイクロペディア日本語版創立総会が開かれた。
しかし、その後も縄文時代の間は利用者はあまり定着せず、まだ過疎ペディアといった世相を成していたのだった。まあ、この頃の日本製キーボードは土器に木製の簡易感圧板を着けただけの非常に貧弱でかつ量産が出来ない時代だったので、パソコンそのものもそこまで浸透していなかったのもある。
弥生時代[編集 | hide]
弥生時代、中国から渡来した弥生人の流入により、アンサイクロペディア中国語版・韓国語版との交流が深まった。それにより狩猟民族から農耕民族に変化した日本人に取って、天気の存在は重要となり、天気をすぐ見れるインターネットが普及し出した。同時に農耕休みの暇潰しにアンサイクロペディアを見る者も増え、弥生時代初期に52人しかいなかった利用者は、末期には800人程にまで飛躍的に増加した。また、アンサイクロペディア日本語版史上初の荒らしユーザーも弥生時代に発生したという。
古墳時代[編集 | hide]
親アンサイクロペディア派だった大和王国の拡大版となる大和朝廷の成立により、非百科事典(アンサイクロペディアの当時の名称)は朝廷内の娯楽として朝廷御用達のウェブサイトとして紹介され、人気を博した。その証拠に古墳などから、アンサイクロペディアをやる人型埴輪や石室にアンサイクロペディアのロゴ「ソフィア(アンサイクロポテトとも呼ばれる)」が書かれている事が分かっている。
飛鳥時代[編集 | hide]
この頃になるとアンサイクロペディア日本語版の管理者であった聖徳太子や蘇我馬子などの指導のもと、現在のアンサイクロペディア管理者方針の模範となる十七条の憲法やビューロクラット・管理者・一般利用者などの身分を明確にする冠位十二階などが制定され、アンサイクロペディアの法治化が進んでいった。
この頃になると、漸く国産の木製キーボードが量産化され始めたため、ネット民が増加し、アンサイクロペディアの利用者数も3000人程に増えた。
奈良時代[編集 | hide]
奈良時代のアンサイクロペディアについてアンサイクロペディア日本語版史書には余り言及が無いため、詳細は不明であるが、都では比較的ネット網が整備され、アンサイクロペディアの利用者も多くおり、海外のアンサイクロペディアンも多数来日していてアンサイクロペディアン専用の宿場もあったと言う伝承がウィキペディアに残っている。
平安時代[編集 | hide]
安定した貴族社会や巨大な都の整備により、朝廷の貴族を中心にアンサイクロペディアの記事が作成されていった。
アンサイクロペディアは貴族も多く利用していた事もあって貴族と一般庶民が繋がって感情を分かち合える唯一の場所として住民に好まれたという。
鎌倉時代[編集 | hide]
この頃になると、朝廷を敵視し、アンサイクロペディア内で俺ルールを強制する武家勢力(自治厨)が台頭し争いが激しくなり、最終的には執権という名の特権管理者によって進められる事となった。この時代よりアンサイクロペディアは段々つまらない場へと変貌していったと言う。
末期になると、海外のアンサイクロペディアンによる荒らし行為(元寇)が頻発し、アンサイクロペディア日本語版に大きな影響を与えた。
室町時代[編集 | hide]
足利義満がアンサイクロペディアを保護した後、アンサイクロペディアには再び活気が戻った。アンサイクロペディアは善いユーモアが溢れ出し、良くも悪くも人を笑わせるサイトとして大手ブログ[どこ?]でも紹介され、一躍人気となった。
戦国時代[編集 | hide]
管理者が全員引退した後、アンサイクロペディア内では戦国武将と呼ばれる自治厨が乱立し、アンサイクロペディアを我が物にしようと日夜編集合戦が各地で行われた。中でも織田信長は、その自治厨集団の中でも銃やキリスト教などの記事を執筆し、そこからのリンクによって急速に支配域を広めた。
また、織田信長は自治厨でありながらもその行動に良識があった事から、多くのアンサイクロペディアンに尊敬され、現在でもアンサイクロペディアに子孫を奉ずる支持者が残る人物でもある。
江戸時代[編集 | hide]
関ヶ原の戦いと呼ばれる歴史的なアンサイクロペディア史上最大の編集合戦に勝利した徳川家康が江戸に幕府を開き、ビューロクラットに就任し、武家諸法度・非百科民諸法度などの新たなローカルルールの制定や、各地の武将が持っている鯖を参勤交代で強制的に徳川家の鯖にインポートする事で全国に疎らなくアンサイクロペディアの記事を閲覧可能にする事に成功。その後の鎖国体制などにもより、安定的なコミュニティの形成が行われるようになった。アンサイクロペディアは江戸の町人からは「読み落語」という別名で呼ばれ、広く一般にも愛されたという。
明治時代[編集 | hide]
明治時代、倒幕成功後に海外からの技術輸入により急速に日本は近代化した。アンサイクロペディア日本語版も未だ江戸時代の風情が残っていて古臭く国際的にも通用しないという事から、明治6年の新暦施行と同時に名称も弥生時代から2000年以上続いた非百科事典[1]からアンサイクロペヂアに変更された。また、ほぼ同時に管理者の大幅再編も行われ、明治新政府下によるアンサイクロペディアの在り方が確実化された。また、この頃からアンサイクロペディアの管理も厳しくなり始め、管理者によりNRVを貼られる件数も増え始めていった。
大正時代[編集 | hide]
西洋の文化が大幅に普及し、近代化する中でアンサイクロペディアは他人へのユーモアの接し方の手本として教養を身につける為に使われるようになっていった。
大正デモクラシーの頃は、その運動に応じてアンサイクロペディアでも投票が行われるようになった。また、関東大震災発生時には、災害情報を求めてアクセスが集中し日本全体のネット網が落ちた上にアンサイクロペディアのサーバーも鯖落ちした。1923年11月に何とか復旧を遂げたものも記憶喪失を起こしており、1918年2月以降の編集が全てパーにされていた。
このような激動の時代の流れの中、ひよこ陛下の台頭によってアンサイクロペディアン共を徐々に統率されるようになっていった。
昭和時代[編集 | hide]
戦前の昭和の頃は幾つかの名記事が生まれるなどしていたが、軍国主義化により段々とひよこ陛下の勢力は増していった。その後の太平洋戦争開戦により、敵国側となった英米のサイトであるアンサイクロペディアは必然的に大本営によってサービス終了処置が発表、1942年2月6日には閉鎖され閲覧不可能となり、記事は当サイト[どこ?]に統合された。これにより、アンサイクロペディア日本語版は3287年の歴史に一旦幕を閉じた。
敗戦後、GHQ関係者の娯楽の一環として1946年にアンサイクロペディア日本語版が再開した。0からの再スタートとなり、当初GHQから依頼された専属の執筆者と翻訳家により執筆されていたが、1947年に一般開放され、1952年まではGHQがスチュワードとしてアンサイクロペディアを管理した。また、戦後は現代仮名遣いの制定によりアンサイクロペヂアからアンサイクロペディアに表記も変更となった。
戦後の混乱期の頃には利用者は伸び悩んだが、高度経済成長期に再び活気が戻り数千人の執筆者によって面白い記事が執筆されると同様に戦前の厳しい管理体制も回帰してしまった為、NRVが貼られまくって当サイトに亡命する者も多数確認されたという。
平成時代[編集 | hide]
現代インターネットの急速な普及に伴い、貧弱な旧インターネットに設置されていたアンサイクロペディアは2005年に現代インターネットに移行、いつでも誰とでもユーモアを分かち合える自由気ままな百科事典と謳い宣伝が行われた。当時上智大学の良識ある管理者による統治が行われ、当時の管理者の寛容さ雄大さは我々を勇気付ける程であった。
現代[編集 | hide]
アンサイクロペディア日本語版は急速な削除厨・NRV厨、八百科事典厨[何?]などの急速な流入に伴い、新規記事を作ってもすぐNRVを貼られるなどといった全く自由気ままでは無い、極めてアカデミックなユーモア研究サイトとなってしまった。
また、常連利用者の機嫌を損ねるとすぐNRVを貼られる為、実質的には常連利用者や管理者の了承と許可を得なければ更新一つままならず、非常に息苦しいサイトとなっている。また、新着の気に入らない記事はすぐに削除する癖にあああああああああ!やひよこ陛下などの本来即NRVが貼られる筈の記事が何故か存続を続けるなど、彼らの精神構造については、素人には理解困難な点も多いが、これもユーモア研究に没頭するあまり、練られた仮説が量子論よりも難解になってしまったためである。
そのようなユーザーの蔓延に伴い最早ユーモアセンスが先鋭化し過ぎて、一般人には何が面白いのか却って伝わりにくいサイトとなってしまった。ウィキペディアのパロディーサイトという建前は確かに達成されたと言えそうである。しかし、恐らく、最早創設者であるオスカー・ワイルド氏の本位を外れ、まるで中世暗黒時代のスコラ哲学のようになってしまったと思っていることだろう。
脚注[編集 | hide]
- ↑ なお、縄文時代は「すべてのことでなし」と呼ばれていた。非百科事典の表記は、感じが輸入され始めた弥生時代以降のものである。
関連項目[編集 | hide]