ウソブックス:夜神月は正義なのか

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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今は昔、一世を風靡した漫画アニメ映画の一つにデスノートが存在した。デスノートは、ノートに「名前を書かれた人間は死ぬ」という大枠でのルールと、その他いろいろな細かい発動条件が存在するノートであり、これを手にした人間の一人が、夜神月であった。

夜神月は、通称キラとして、デスノートの力で以下の条件を満たす人間を一斉に粛清する作業を実行した。

  1. 重犯罪者、特に、法の抜け穴によって生きながらえている者
  2. キラの正義観に反発し、キラを妨害しようと試みる人間の中で、キラの脅威になり得ると考えられた者

このウソブックスでは、このキラの正義観が、果たして正義としてふさわしいものなのか考察してみたい。

論点1:命の価値[編集 | hide | hide all]

実際に使用されたデスノート。実は退屈な死神が暇つぶしに別の死神から奪って落としたもの。

犯罪者であれ、人命を損なうことは、何らかの価値変化を起こすと考えられる。論点の一つは、この価値の変化が、損失と出るか、それとも利益と出るかである。

人命に尊厳を認めて、その価値を絶対視したり、少なくとも「地球より重い」と考えたりするのであれば、失われる価値は無限大か、有限だとしても人間の経済活動規模に比して十分に大きいとみなせるため、デスノートによる処刑は問答無用でだと判断されることとなる。

しかし、現実的に考えるのであれば、全ての人はやがてすべきものであり、人が死ぬ度にそれほどの価値が失われるとみなすのであれば、いかなる経済活動もその損失を補えないナンセンスの塊となる。結果、人類のいかなる生産活動も無意味であるというニヒリズムに陥りかねず、このような考え方は受け入れるべきではない。

故に、人命の価値は有限かつ地球より軽いとみなさなくてはならない。これは、生物学的にも人類が地球に依存した存在であることを考えれば合理的な結論である。人命の価値を認めるとして、地球を失うことは、全ての人命の損失につながり、一人の人命の損失よりもはるかに大きな損失を生み出すこととなるからである。

かくて、人命の価値を評価する必要が生じるが、代表的なのは、障害調整生命年 (DALY)[1]質調整生命年 (QALY)、逸失利益の三つの考え方である。

DALYとQALYは元々医学的観点から、疾病のコストを評価するために開発された指標であるが、仮に犯罪行為を一種の疾病と捉え[2]、刑罰執行や訴訟、警察機構の維持にかかるコストと、犯罪者が生産する価値とを比較すると、これらの基準を採用した一定の評価が可能となる。

DALYの場合は、障害を有しながら生きた年数と、障害によって失われた寿命が、社会的重みづけを考慮しても基本的には「損失」だと判断されるため、これに基づく計算値では、デスノートによる処刑は常に損失を生ずることとなるため、支持されない。

これに対し、QALYでは、障害を有している状況での生存期間が、場合によっては死よりも悪い状況と判断されることがあるため、適切な経済評価の結果、QALYがマイナスになる犯罪者については、デスノートによる処刑が支持されるという結論を出すことが可能である。

一方、法学あるいは法経済学的な価値判断をルーツとする逸失利益の考え方では、ある人が死んだ場合に想定される、失われた利益が計算される。この利益は、収入から生活費を差し引いたものとして計算されるが、例えば終身刑を受けた囚人で、刑務所内での労働も一切行わない場合、全ての生活費が税金によって賄われ、かつ収入は0であるため、デスノートによって処刑することの結果としての逸失利益はマイナスになり、逸失損失とでも言うべき状況が発生しうる。換言すると、このケースではデスノートで処刑することによって、それ以上のコストをかけずに済むため、むしろ積極的に処刑するのが合理的であるという結論が出る。つまり、デスノートでの処刑が認められる囚人が一定数生じる可能性があるということになる。

但し、ウェルテル効果のような連鎖反応[3]を考慮した、社会全体への影響を考えるにあたっては、より俯瞰的な指標が必要とされる可能性がある。この場合でも、大枠では「最大多数の最大幸福」を掲げる、功利主義的な指標が採用される可能性が高い。

論点2:哲人独裁vs衆愚政治[編集 | hide]

特に民主主義法治主義が採用されている諸国におけるもう一つの大きな論点は、夜神月という個人の裁量による超法規的判断が許容されるかである。夜神月が凡人であればこれはさほど問題にならないかもしれないが、問題は、夜神月が天才的頭脳の持ち主であることであり、それは、「一人の賢者による独裁と多数の愚者による民主制のどちらがベターか」という哲学政治学における古典的な問題を提起する。

プラトンが哲人国家を提唱し、古代アテネの民主制がデマゴーグによる衆愚政治に陥って弱体化したころ以来、一人や少数の超賢人による政治と、多数の愚者の総意による政治のいずれがより優れた政治体制であるかの議論は尽きない。

集合知定理の明かすところによれば、多様な判断が生じ得る問題に関していえば、何もわからずにランダムな推定を行う大衆に任せた方が、最終的な集団としての判断の誤差が卓越した個人の推測の誤差を下回ることが知られている。しかしながら、生かすか殺すかという二択問題では、判断に多様性が生まれる余地が少なく、この定理は直ちには成り立たない。

むしろ、大衆の価値判断は誤りを犯す可能性がある。効用理論プロスペクト理論が明かすように、人間は集団としては「失うことを極度に恐れ、大きいが不確実な収穫よりも小さくて確実な収穫を好む」習性があり、期待値に基づく機械的・合理的な判断を行うゲーム理論のプレイヤーのようには行動しないからである。もちろん、天才とて本来はその傾向の例外ではないが、天才の場合は数学的考察により、合理的な結論を得られる可能性が凡人に比べて高く、したがって凡人集団よりも正しい判断を提示できる可能性がある。その場合、デスノートによる処刑は支持されるということが自然な結論になり得る。

論点3:誤判・冤罪[編集 | hide]

精度100%で判定ができるのでない限り、確率的には必ず誤判が生じる[4]。現実問題としては、殆どの判断が統計的側面を持つので、いくら夜神月が天才的頭脳の持ち主だとしても、必ず誤判が生じると言っていい。

誤判の一方は、本来デスノートで裁かれるべきなのにそれを逃れる人々(第二種過誤)、他方は、本来デスノートで裁かれるべきではなかったのに誤って裁かれてしまう人々(第一種過誤)である。

これらの過ちをどこまで許容リスクとして受け入れるか次第で、デスノートによる判断が支持されるかが変わる可能性がある。すなわち、論点1でデスノートの使用が有益だと判断されたことを前提として、処刑精度が許容リスクの範囲内の精度であれば、デスノートの使用は受け入れられるが、一切の誤判を認めないなどという過激な論理[5]が通ってしまった場合は、それを理由にデスノートによる処刑が受け入れられない可能性がある。

結論[編集 | hide]

本ウソブックスでは、明確な結論を出すことはしない。材料を提供するだけである。キラが正義であるか、それともキラを止めようとするLニアメロが正義であるかは、あなたが自分の頭で考えて欲しい。

脚注[編集 | hide]

  1. 障害調整生命年 (DALY) = 損失生存年数 (YLL) + 障害生存年数 (YLD)。
  2. すべてではないが、一定数の犯罪者がサイコパシーなどの精神疾患を抱えていることを考えると、この捉え方は直ちに誤りとは言えない。
  3. デスノートで処刑された人物の関係者の連鎖自殺など。
  4. 正しく判断する確率が0.999だろうが0.1だろうが、その累乗の極限は0となる。つまり、十分な数の判断を行っていれば、ほぼ必ず間違える。
  5. この世界にリスク0はあり得ない。合理的なリスク評価では、期待損失以上の利益が出ることが許容リスクの閾値を定義するが、問題は、世論がしばしば主観的な安心を重視し、安全とは異なるものを要求することである。

関連項目[編集 | hide]

この記事「 夜神月は正義なのか 」は、
第四回藍色執筆コンテスト1位入賞 してしまいました。

この事実にウソペディアン一同 瓢箪 驚嘆しています。