10年見て古びるユーモアと、時代を超えるユーモアの違い
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あなたよ、もしも君がこの本を見ているのだとしたら、ユーモア枯渇症に悩まされているか、時代錯誤なユーモアの手直しを忘れてしまったサイトの古いネタが何故古びたのか考えてしまっているかのいずれかであろう。
私はこの場を借りて、私論を述べさせていただく。
10年も見ないうちに古びるユーモア[編集 | hide | hide all]
スパイスのかけ方を間違えたユーモア[編集 | hide]
大きな数字、衝撃的な人物などは、適所に配置すれば良質な笑いを取れる。しかし、どんな料理もスパイスをかけ過ぎれば台無しになってしまうように、何でもかんでも同じネタを使い回しているようでは、すぐ古びてしまうだろう。お笑い芸人に一発屋が多い一因は、彼らが一つのネタ(パターン)に拘泥し過ぎて、新しいパターンを作り出せないからである。
逆に長く生き残っている芸人は、次々と新手の着想を試している(時に滑ろうとも)。スパイスも、マヨネーズも、かけ過ぎてはいけないのである。
10年見て古びるユーモア[編集 | hide]
10年も見てしまえば、あるいは10年ぶりに見たら古びてしまうユーモアは、あまりにも多い。お笑い芸人も大半は一発屋で、一度ブレイクしたっきり消えてしまう。NRVを貼りまくって優秀なユーモアを選別したはずのアンサイクロペディアですら、何年も前に書かれた記事の多くは、既に錆び付いてしまっている。
以下、そのように古びてしまうユーモアの例を挙げようと思う。
自己言及的なページ[編集 | hide]
例えば、ニヒリズムを見て見よう。一度目はあっと言わせられるが、二度目以降には慣れてしまう。見た目は綺麗だが底が浅い、姿ばかりの美人のような物で、三日もすれば飽きられる。
対策として、多少ひねりを加えることが考えられる。途中から真面目に書いたり、ミスリードしたりする手である。しかしながら、このような手も、最初は新規性があるが、すぐに飽きられてしまうだろう。
アンサイクロペディアの削除主義者たちは、二番煎じ・N番煎じという言葉を多用したがるが、残念ながら、どんなに優れた記事であっても、自己言及的な記事は何度も見ることで、ユーザーの中でそれ自身がN番煎じに見えてしまうのである。
このような記事を書くことは、単調なリズムネタをひたすら繰り返す芸人のような物だと思っておけばいい。初見の人間には受けても、広く知られれば錆び付いてしまう、陽炎のように短いライフスパンしか持てない記事である。
時事ネタ[編集 | hide]
極度に時勢に敏感なネタは、その時制が変化するとともに古びてしまう。例えばいつまでも北朝鮮を金正日の下の国家として描いていれば、金正恩体制にある現代では、時代錯誤さゆえの失笑こそ買えども、快いユーモアの笑いは引き出せないだろう。時の流行を描くことも、同様の過ちに陥りやすい。
そのようなネタは、アーカイブされて、ごくまれにウソニュースとして懐古趣味の人間にほこりを払ってもらえるのを、今か今かと待っていることになる。
流行語満載のネタ[編集 | hide]
時事ネタにも似ているが、流行語を多用したネタは、その言葉の流行りが終わるとともに、衰えてしまう。
時代を超えるユーモア[編集 | hide]
不変の人間の性質を描いたもの[編集 | hide]
人間の変わらぬ性質、特に愚かさを描いたものは、何百年、何千年の歳月を超えて生き残り続ける。
例えば、こんな記述。
「よろしいですか、友人の欠点に眼をつぶり、見逃してやり、盲目になり、幻想を抱き、ことさらに目立つ欠点を、美徳として愛したり褒め称えたりするというのは、痴愚に類するのではないでしょうか?……この痴愚のみが友情を結ばせ、結ばれた友情をいつまでも渝(かわ)らぬものとするのです。……賢人たちの間では、友情などというものはまるっきり結ばれることはありませんし、あったとしても何やら陰気くさい、楽しくないものがそこに入り込み、その相手にしても、ごくわずかしかおりません。……友情と言うものは、似た者同士の間でなければ結ばれないものなのです。ですからこの厳めしい哲学者先生たちが、時として互いに好意を抱いて相寄ることがあっても、それがしっかりと根を下ろしたものになることはまずありませんし、長続きもしません。……この陰気な先生方ときたら、やたらに眼力にたけているので、……友人たちの欠点を鋭く見抜いてしまうからです。もっとも、自分自身の欠点には目が濁っているばかりか、背中にぶら下げている頭陀袋がとんと目に入らないのですがね!」
(エラスムス、『痴愚神礼讃』、沓掛良彦訳より。「……」は中略を示す)
簡単に言うと、賢過ぎる人間はズバズバと欠点を言い合って、簡単に友情を失ってしまうという、自分自身の欠点だけは見えていない、ということである(cf. 高偏差値症候群)。
流行に左右されない、普遍的な語彙で描かれているもの[編集 | hide]
流行語を多用するのではなく、昔からある言葉、あまり変わらない言葉を、変わらぬ語法で書くと、その内容は時代を超えて生き残りやすい。例えば、「アモーレ」「サムライ」「ナオン」「パーペキ」「ユーテワンチャンアルッショ」ではなく、「愛」「男」「女」「完璧」「そうは言うものの何とかなるんじゃない?」などを使うと良い。
流行語や若者言葉を使い過ぎてダメになった記事は、「超」「ウザい」「インスタ映え」「卍(まんじ)」などで満ち溢れている。
例えばこんな感じ。10年後に読み返して通用するか、よく考えてみよう。
「○○とは、超ウザくて激おこぷんぷん丸にさせる卍である。マジコミュニティ疲弊させて来てツラいんだけど、ユーテブロックしない手もワンチャンあるんじゃね?lol」
反語の活用が巧みなもの[編集 | hide]
通常の意味と逆転させた語法や表現をあえて用いる。
オウィディウス『恋愛指南』(Ars Amatoria)のように、軽い話題を大真面目に教授したり、痴愚神礼讃のように普段嫌われる愚かさを自画自賛して見たり、真面目な話題を茶化してみたり、素晴らしいものをこっぴどく言ってみたりする。
そこに普遍性があれば、きっと生き残るであろう。
嘘のつき方が巧みなもの[編集 | hide]
嘘を混ぜるにせよ、事実との距離感や配合割合が巧みでなくてはならない。
人心を掴むには大きな嘘も必要かもしれないが、妄想になってしまってはいけない。かといって、事実が多すぎても、ウィキペディアンですら敬遠する難解な文章しか書けないだろう。
利用者の私論(あくまで参考です。絶対守るべきなのは{{運営関連文書}}の項目の方。) |
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