事実

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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事実(じじつ、:fact)とは、小説よりも奇なるものである。

概要[編集 | hide | hide all]

事実とは、実際に起こったことや、実際に存在するものだとされている。しかし、何が実際に起こったのかは、芥川龍之介が『藪の中』で描き、黒澤明映画羅生門』で映像化したように、あなたの立場によっても変わって来る。何もらなければ政府権力についての陰謀論を事実だと思い込むこととなり、法廷では証拠に基づき裁判官が認定すればよいので、白と黒が入れ替わることも十分あり得る。

文学的には、どんなに突拍子もない妄想を描いた小説でもはるかに及ばないのが事実である。何故ならば、事実によると、シュレディンガーの猫のようにきていると同時にんでいる世界も可能だからであり、今この瞬間ですら世界がいくつにも分岐しているのかもしれないからであり、どうやらエベレストに置いた時計と海面に浮かべた時計とには進行時間の差が生じているからであり、我々は日常的に毒ガスに頼って生きているからでもある。

事実とナンセンス[編集 | hide]

事実は何よりもまず、ナンセンスの塊である。確かに科学的な法則には従っているかもしれないが、常識には従わず、あなたが生きていることへの意味すら与えられていない。事実は、徹底してニヒルだが、虚無主義でもなく、人生に意味を求める存在を無意味な世界にただ放り出すだけである。そこで人間は意味のある世界を求めてだの死後の世界だのの道具を作り出すが、それらが虚構であることをいつしか忘れて本気で真実だと思い込み、バターの塗り方などの些細な教義の違いから大真面目な宗教戦争に入っていくのだから、事実は何よりもまずナンセンスである。

事実と法学[編集 | hide]

法学的には、事実は裁判官が認定するものである。どんな学者が考えた理屈よりも、メディアが取材で得た情報よりも、何よりもまず裁判官の判断で作られる。結局のところ、自分たちに都合の良い事実を作りたければ、行政府の長になるか、袖の下を潤してやるかするとよいだろう。こうして、事実は、恰も小説であるかのように紡がれるのである。裁判官の衣のなど、の糞でも引っ掛ければ簡単に染まってしまうのだから、法学的な事実とは、何とも脆い事実である。

事実と文学[編集 | hide]

文学的には、事実は小説の材料となるが、小説以上に奇妙である。最大の理由は、小説が事実の一部しかくみ取れず、付加される妄想も人間知性の範囲内のものに過ぎないこと、つまり、事実の方が余程小説よりも複雑なことであると考えられている。

しかし、あまりにも複雑怪奇かつ奇妙なので、事実そのままでは、却って退屈な小説になってしまうことも多い。そこに、人間に理解可能な娯楽へと落とし込むための、ウソが入る余地があるのである。

事実と経済学[編集 | hide]

経済学的には、事実よりも予測が重要である。せいぜい事実は、ビッグデータとして人工知能に放り込まれる予測の材料にしかならない。しかし、事実を材料にした予測ですら、事実は平気で裏切っていくのだから、ここでもやはりフィクション(予測)よりも奇妙奇天烈なものである。結果として、経済はすぐ世界恐慌だのリーマンショックだのに落ち込んでしまう。

事実と科学[編集 | hide]

科学は今のところ最も事実を上手く説明してくれる。それ故、科学自身かなり奇妙な姿の理論をあちこちに含んでいるが、それでも事実の方が科学よりも更に奇妙である。何故なら、最新の科学ですら、あなたの10年後の人生を描き出すような素朴なテーマであっても、まともな科学者なら、まだ予測できる水準に達したということはできないからである。

事実と哲学[編集 | hide]

哲学的には、事実は妄想と区別が付けられない可能性がある。何故ならば、この世界が独我論的ではないという論理的な証明は不可能だからである。あなたが事実だと思っているということと、それが客観的な事実であるということとの関係性は保証されず、そもそも「客観的な事実」が存在することすら、誰も保証できない。しかし、哲学的にも、哲学者が今なお頭を悩ませていることからも分かるように、事実は、妄想だと分かる妄想に比べてはるかに複雑怪奇であることには変わりはないのである。

関連項目[編集 | hide]