今川氏

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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今川氏(いまがわし)とは、戦国時代に、現在の静岡市付近に本拠地があった武闘派の一族と郎党の軍団である。のち静岡県、愛知県に版図を広げ戦国大名となった。

出自[編集 | hide | hide all]

この前の時代に、都で国王のもと政権を担っていた足利軍団の軍団長の親戚が、先祖である。足利軍団との親近さは吉良軍団に次いで二番目で、いざというときは政権を担える資格を有していた。

系譜[編集 | hide]

範国
今川氏は代々、「範」の字を名前として引き継いでいく。これは「わしは、足利政権のルールブックじゃ!」という自負を表している。ただ、吉良氏が代々「義」の字を引き継ぎ「わしは、足利政権のジャッジメントじゃ!」と声高に叫んでいるのに対抗したと言えなくもない。しかしこのルールブック発言は、実は偶然の結果であった。本来ならこの人物は今川氏の先祖であるはずもなかったからである。実は父親の長男である兄の頼国が1335年に戦死しており、その生前「わしは、足利政権の寄らば大樹の陰じゃ!」とよく言っていた。代々「頼」の字を引き継げば、足利政権の重鎮になれた。
とにかくも、兄に比べれば小人物であるがなんとか国を1つもらえた(駿河国)ことにより先祖になれた。
範氏
範国のむすこ。「氏」という名前はこの今川氏を背負って立つという意気込みを示しているが、現実には無理であった。父親に先立って亡くなってしまったのだ。今川を支えるだけの器がなくかなり心労を重ねたようであるが、その最大の心労は九州の反足利勢力をたった一人で滅ぼしてしまうという巨大人物すぎる弟貞世の存在であった。ただ貞世は忖度が下手で世渡りに失敗していたのであるが。
泰範
範氏のむすこ。早世した父に代わり実は跡を継いだのは、兄の氏家だった。むすこを亡くし弱気になった祖父範国は「ルールブック」相伝を断念し、その「家」の字のとおり「わしは、家庭を大事にするんじゃ!」と方針転換してしまったのである。しかし氏家は家を継ぐやいなや亡くなってしまい、けっきょく元の「ルールブック」相伝に戻ったというわけである。「泰」という字にはこの時期の今川氏の混乱ぶりがよくあらわれ、足利政権のルールブックになる余裕もなかった。
範政
泰範のむすこ。「政」の名のとおり、ようやくルールブックとしての本領を発揮できた。6代将軍の足利義教が「富士山が見たい」とわがまま発言をしたときには、巧みに忖度して宴会部長をつとめあげている。居並ぶ諸大名たちは、この人がネズミのごとく動き回るのを見てみな見習おうと思った。
しかし、跡継ぎ選びには失敗した。むすこの範忠が最有力だったのに、末のむすこの範頼を指名してしまった。兄のほうは「忠」つまり家族よりも郎党を大事にするキャラだったのに対し、弟のほうは「頼」つまり郎党よりも家族を大事にするキャラだったからである。「おとーしゃん、おとーしゃん」と人なつっこい弟のほうを溺愛した結果である。結局断念して兄のほうに家を継がせたが、弟のほうが忘れられず「こじかのバンビちゃん」とあだ名をつけてそれはそれは猫かわいがり…じゃない、小鹿かわいがりをした。この父親の態度に郎党たちは疑心暗鬼になっていたとも知らずに。
範忠
範政の嫡男。その「忠」の名のとおり郎党を大事にしたわけだが、父親があまりにも弟のこじかのバンビちゃんをかわいがるので郎党たちのなかには「こじかのバンビちゃんが跡継ぎに違いない!」と信じて反抗する者が現れた。なんとかそれを抑え込んだ後は、「忠」の本領発揮で郎党に対してだけでなく足利将軍家のためにも多大な貢献をした。時の将軍からは「今川忠犬あっぱれ」の声をいただいた。そのため晩年は犬をとてもかわいがったという。
義忠
範忠のむすこ。この代になって代々の「足利将軍家のルールブック」が消え、替わって「足利将軍家のジャッジメント」になる意欲が生まれた。ちょうど応仁の乱の混乱の時期である。そして内には郎党を大事にし外には足利将軍家を大事にする忠犬精神を貫こうとしたが、1476年子飼いの忠犬のはずの地元の親分に暗殺されてしまった。内よりも外に目を向けすぎたせいであった。
氏親
義忠のむすこ。父親が暗殺された時まだ小さな子供だったので、一族の範満が代行統治することになった。この範満はこじかちゃんのむすこで親と同じくとてもかわいらしかったので郎党たちからとても好かれたうえに、今川伝統の「足利将軍家のルールブック」を復活させたので家中みんな「満」足してしまい、氏親が成人しても家を継げなかった。将軍家のルール担当官吏を務めていたオジサンが乗り出してきて、何とか継げた。
「氏」つまり足利将軍家よりもまずは混乱した家中の立て直しが先決と考え、「親」戚一同一丸となろうを合言葉に今川の再建をめざした。この改革により、今川氏は武闘派軍団へと脱皮できた。
氏輝
氏親のむすこ。「氏」の名を引き継ぎ引き続き足利将軍家を都に放置して、ひたすら自らの実力を高めることに専念した。おかげで将軍家は見る影もなくなったわけだが。これにより今川氏は、東海地方にさんぜんと「輝」く戦国大名の代表的な武闘派集団に成長した。この2代にわたる「氏」の相伝によって、いよいよ今川氏は天下に乗り出すことになる。

今川義元[編集 | hide]

氏輝の弟。兄が24歳で早世したので、後を継いだ。「氏」の名は引き継がず、今度こそ捲土重来「足利将軍家のジャッジメント」となるべく「義」の名を名乗り上洛の軍を進発させたのは1560年のことである。まさか途中で弱小大名によって寝首をかかれようとは夢にも思わなかった。これにより、今川氏は「元」の木阿弥、静岡県に引きこもることになった。「元」という名前がこれほど不吉な名前だったとは。

衰え[編集 | hide]

氏真
義元のむすこ。「義」などと大それた野心は捨て、今川「氏」を再建しようと「真」剣に取り組んだ。方向性は間違ってはいなかったが、いかんせん周囲からの圧力が強かった。とくに武田信玄・織田信長からの「信」パワーの脅威は恐るべきであった。