哲学

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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とことんまで知を愛したら、知はこのような美人の姿に見えてくるとも言われている。

哲学(てつがく、:Philosophy,Sophilia)とは、を愛してやまない変態性癖である。

概要[編集 | hide | hide all]

哲学の原語Philosophyの語源は「知を愛する」ことであり、哲学とは、その名の通り知を愛し求めてやまない試みである。人が知を愛することとなる主観的な動機は、単にであることから、失業したこと、失恋したこと、うっかり哲学者の本を読んで、深淵に飲まれてしまったことまで、様々であるが、客観的に見た場合、最大の因子は良い異性に恵まれない環境に置かれたことだとされている。

哲学は知を愛し求める試みなので、人生目的か、は何を知っているか、定義とは何か、など、ひたすらに現代科学が明かし切れていない問題や、論理学を突き詰めると起こる現象の探索などを行っている。その挙句、我々には意識などないのかもしれない、この世界錯覚かもしれない、によってすべてが失われてしまうのだ、などという無数の可能性結論に行き当たり、最終的には知の中にあらゆる美人にも勝れるをも見出し、知を性的対象と捉え始めたりする。この段階に至ると、その人はSophiliaすなわち「知フェチ」なる変態として、完全に道を究めたと言えることとなる。

この最終段階にまで至った哲学者は、仲間内からでさえ狂人の烙印を押されることとなるが、大衆から見ると、そもそも哲学に触れてしまったら、その時点でどこか頭がおかしいか、空気解読障害か、失恋のショックのあまり知に意識を傾けた変態だと勘違いされやすい。これは、大衆から見れば、哲学の諸問題を考えることよりも、その日その日の仕事をこなすことの方がはるかに重要なことであり、哲学者たちはアル中と同様、社会的生活能力が欠落した異常者だと見えるからである[1]

哲学における問題の例[編集 | hide]

に意識はあるのか?[編集 | hide]

と話をすると、どうやら君は、私と同じような振る舞いをしている。しかし、君は精巧なロボットで、人間ではないかもしれないし、私達哲学者がいう所の哲学的ゾンビかもしれないのだ。果たして、君に意識はあるのだろうか?

私は何を知っているのか、知り得るのか?[編集 | hide]

学校テスト正解があって簡単だが、人生の多くの問題には正解などない。自分達の人生一つ正解に沿って生きられない我々は、いったい何を知っているのだろうか?そもそも、何かを真に知ることはできるのだろうか?それとも、せいぜい知っているかのように振る舞うことができるだけなのだろうか?

哲学者になるのは心理学の問題だろうか?[編集 | hide]

心理学はまだまだ人間心理の描写すらおぼつかない部分もあるが、それでもある程度まで、防衛機制の類として哲学者になること、哲学がしばしば鬱病を悪化させることなどを説明できるようになってきた。しかし、哲学者になるのが心理学的メカニズムで一切片付けられてしまうのであれば、果たして我々に「哲学者にならない自由」はあるのだろうか?哲学者になる(ならない)に際し、私達の意思は何らかの影響を及ぼし得るだろうか?

哲学と科学[編集 | hide]

科学は哲学から派生した。しかし、その科学が哲学の「派生」であって、哲学ではないとは、どうして言えるだろうか?多世界仮説などは、正に哲学の問題に他ならないのではなかろうか?

哲学と言語[編集 | hide]

言語抜きの哲学は今日の水準までは発展しなかっただろう。しかし、ヴィトゲンシュタインに言わせれば、その言語がまさに哲学の諸問題、実際には存在しない問題を疑似問題として浮かび上がらせた元凶だということになる。では、言語はどこまで哲学に影響するだろうか、そして哲学は、どこまで言語に影響を与えられるだろうか?哲学は、言語の限界、を扱えるだろうか?また、言語が哲学の限界を規定するものなのだろうか?

結論[編集 | hide]

哲学者たちのように、上に挙げたような果てしない問題を四六時中考えていたら、誰もが迷宮的な魅惑を持つ名器たる知にのめり込み、やがて知を愛しすらするようにもなるのだろう。ウソペディア中毒にかかり、ユーモアにのめり込んでいくのと同じく、下手すれば社会的なバランスを欠き、変態と見なされるのも致し方がないことである。

脚注[編集 | hide]

  1. 恋愛状態にある人間が恋愛依存症にかかっている確率よりも、哲学に興味を持つ人間が哲学依存症である確率は1.8倍高いとする調査データも存在する。