城割り

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』

城割り(しろわり)とは、日本において一国一城令の施行後に行われた、城の整備事業。

背景[編集 | hide | hide all]

戦国時代までは内戦状態のため、日本中の軍事的要所と戦国大名の拠点になる都市に城が建設された。城は野戦目的の簡易なものでは、トーチカと塀を並べただけの簡易なものが多かったが、のちには複雑な曲輪(くるわ)に囲われ、大型の櫓と門を並べ、平時の政庁となる御殿と最終防衛拠点となる天守閣を備えた、複雑な構造のものへ発展していった。

日本のほか、ハワイや韓国へも城が設置されたが、欧州においては、ラブホテルのごとく豪華な宮殿である場合が多い。

武士はメンツを傷つけられると平時でもバーサークして暴れる性質のある生物で、そのため隣国との戦闘がまったく想定され得ない土地(柿崎義弘で始めて東北全部押さえ終わった後の北海道など)でも、一揆やお家騒動は当然のことながら、本格的な戦争に耐えうるような、無駄とロマンにあふれた建物が建造されていた。

天下泰平の江戸時代になると、これらは軍事基地の形をした役所と化し、討幕派が立てこもるなどの危険も予想されたため、一国一城令が施行された。

江戸時代以降[編集 | hide]

明治維新後にも廃城令が施行されたが、先の戦争(標準語)においても城への損害が甚大で、名古屋や大阪では戦前から城割りが行われ、町のシンボルとして親しまれた。その後も各市町村で、特に昭和中期にかけて、城を不正コピーする(割る城割りが盛んに行われた。結果として、犬山城などの天守閣が大量にコピーされて各地に乱造された。

城割りの形態[編集 | hide]

火災などで城の天守閣が現存しない場合、潤沢な予算のある大都市では、莫大な予算を投じ、ほぼ歴史的にも同一な外観かつ同工法で同位置に建設された木造復元天守が建てられた。また防火上の問題から、天守台と外観だけは同一の外観復元天守を鉄筋コンクリートで建設する場合も多くみられた。

しかし、戦後の城ブームによる観光客集めのため、城の需要が多く、各市町村では、さらに大量の城を建設する軍拡競争が繰り広げられた。特に領土問題を抱えて国境紛争が絶えない町田市や、同じく東京と千葉の国境紛争地帯として知られる葛西などでは、明らかに城のなかった場所に、鼠の巣として知られるシンデレラ城や、ホテルエンペラー石庭など、もはや日本の城ともいえないほど考証を無視した城が乱立した。

外観も他所の城を不正コピーした模擬天守が多く、後述の伏見城のように、明らかに不自然なコンクリートの土台に板状の石を張り付けた石垣などが多数みられる。また、模擬天守以外でも、現在の城主ならこうするだろうと思われる、対空ミサイル陣地やレーダーを備えた復興天守を地雷原や対戦車障害物が取り囲み、重機関銃を並べた櫓に守られた、防御力の強そうな復興天守、プライバシー保護のため入り口を板塀で覆い隠し、横に「休憩・宿泊」などと料金を表示した、天王寺大阪城などに代表される天守閣風の建造物などが各地に点在している。

欧州における天守論争[編集 | hide]

欧州では、城自体ラブホテルのような外観のものがほとんどで歴史的考証の問題は生じなかったが、城に設置される天守の考証は、重大な教義論争を引き起こした。このため、中世初期には聖母マリアを天守とみなすかどうかで大論争がおき、尼僧や巫女などの僧侶が銃を乱射する大騒乱に発展した。聖像論争と言われるこの論争で、西方教会と東方教会は分裂した。当時消費された弾薬の数は、それまでの戦争の数倍にも及んだとされ、大量に弾幕を撒き散らし、かすり、見切り、避け続けた論争の結果、日本では命名則に従い漢字五文字で東方正教会と呼ばれる。

さらに天守を教会とみなすか聖書とみなすかで近世にも大論争が発生した。このためカトリックとプロテスタントは分裂し、ドイツ全土をほぼ焼け野原にする戦争を引き起こした。その余波は日本にも及び、イエズス会が日本に来航して布教を行い、島原城や原城が砲撃戦により破壊され、鎖国政策を引き起こした。教会は、確かに天守閣並みの高層建築で三角屋根であるが、のち、教会は天守閣ではなく天主堂と呼ばれるようになった。

実例[編集 | hide]

伏見城は、豊臣秀吉が屋敷として使うため建造された。京都盆地は、元々巨大な巨椋池が徐々に陸地化して形成された湿地帯にあるため地盤は弱く、初代は見事に全壊して、桃山や伏見簡易裁判所となっている。

二代目は、桃山駅を挟んだ向かいの木幡山に建てられたが、こちらは関ケ原の戦いが起こる直前に、豊臣方に攻められ壊滅。

三代目は、ほぼ同位置に徳川側により再建された。城への通勤客で桃山駅近辺も大いに賑わった。

その後、幕府の政庁は一国一城令により帝都に集約されたため、銀座(造幣所)や伝馬所(港湾施設)など一部の機能が大手筋の麓側に残された他は全廃され、建物も天守閣が帝都の二条城へ移動、大手門はまっすぐ坂を下りて御香宮に移設され、櫓なども福山城など他施設へ移設された。

江戸時代にかけて、伏見城は堀内村と呼ばれ、跡地は大量の桃が植えられた公園となっていたが、桃太郎は岡山に取られた。

幕末には、先の戦争(京都弁)と呼ばれる戊辰戦争が勃発、伏見一帯は焼け野原となり明治時代を迎える。帝都は江戸に事実上持っていかれているものの、伏見港には100000トンクラスのコンテナ船が往来し、京阪電車が通り、天下の酒造地として賑わいを見せていた。明治帝は日本の近代化を見守りながら半世紀を過ごしたのち伏見城に入城され、忠臣の乃木大将も神霊となり傍で帝に永遠に仕えることとなった。しかし江戸時代に帝都へ移転していた伏見城の天守閣は1750年の落雷で焼失していた。

伏見城の天守閣は、洛中洛外図に二条城へ移転した後の大まかな絵図が残されており、戊辰戦争で焼けた伏見復興のシンボルとしてCapturedされ、御花畑クルルァの位置にEmurated(原文ママ)された。周囲は遊園地として奈良電気鉄道→近鉄が営業を続けたが、USJに敗れて閉園、現在は京都市が運動公園として運営している。しかし阪神大震災後の耐震基準に満たない模擬天守(割れ)であるため、天守閣への一般人の入場は禁じられている。


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