天才
天才(てんさい、英:genius)とは、人々の理解の外側を開拓する人又は能力である。
概要[編集 | hide | hide all]
天才とは、他者から理解されない知や芸術等を生み出す人を指す。殆どの天才と呼ばれる人が真に天才たる能力を持つのは、美人の美貌と同じく、人生の中のほんの一時である。これは体力をベースとするスポーツの天才に限ったことではなく、学者や芸術家も、一度天才と呼ばれてしまえば名ばかりは一生天才でいられるものの、実績ではなかなかピークを超えられず、天才的な実績はごく一部であることが多い。
天才と「奇跡の年」[編集 | hide]
天才の才能は一瞬開花し、後は天才とされる人からも去ってしまう。その裏返しとして、アイザック・ニュートンやアルバート・アインシュタインには、最も輝かしい実績が集中した「奇跡の年」が存在する[1]。その後を見ると、ニュートンは時代錯誤な錬金術に凝り固まって落ちぶれ、アインシュタインも量子論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と述べて否定するなど、いずれも時代の最も優れた科学者ではあり続けつつも、実績の面では陰りを見せている。
芸術家にしても、大ブレイクする作品が一つ出たら、後は内容によらず名前だけで売れていくので、大抵最初のブレイクに勝るものは出せない。
天才の存在は、天才自身にとっても半ば以上奇跡的なのである。
天才と狂気[編集 | hide]
天才は、脳科学的なトレード・オフによって、しばしば常識や日常生活の能力が乏しくなりがちである。このことや、常人からは理解不能な実績を生み出すことから、古来狂気との関連性において考察されてきた。
小難しい理屈で天才と狂気の関連性を定式化する試みも、両者を分離する試みも多数存在するが、結局のところ天才と狂気との境界線は、後世歴史が決めることであり、後に社会的に受容されれば「天才」、受容されることがなければ「狂気」なのである。
とは言え、精神医学的に見た場合、天才と評価される人間が鬱病、躁鬱病、統合失調症、人格障害等の精神疾患に罹患している率は、平均よりも有意に高いという報告も見られるのは確かであり、これは行き過ぎたトレード・オフの結果だと考えられている。
天才は変わり者なのか[編集 | hide]
歴史を繙けば、ベートーベンが不潔だったとか、アルキメデスがユリーカと叫んで風呂から飛び出したとか、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは自分の耳を切り落とす奇行に走ったとか、レオナルド・ダ・ヴィンチはゲイだったとか、ことさらに天才を「変わり者」あるいは「マイノリティー」として描くエピソードが強調される傾向が強い。しかしながら、舌を出したアインシュタインが最早天才としてのピークを過ぎていたように、天才は、変わり者としての側面が目立つようになった時、多くはその初期の輝きを失っている。
天才が天才として活動している間は、変わり者ではあっても、あまりに才能が溢れているので、常人はその異常さについては目をつぶるのである[2]。
天才は教育可能か[編集 | hide]
教育によって天才を人工的に作り出そうとしてもせいぜい秀才が生まれるだけだが、生まれつき天才の素質が垣間見られるギフテッドに対して、その資質を伸ばすような教育を行う試みは中には存在する。
この教育の特徴は、バカボンのパパばりに「これでいいのだ」と教え込み、常識から徹底的に隔離することである。これにより、真に才能溢れる子供であれば、才能が純化され、最低限立派な専門家にはなれる。しかし、やはり大人になった時もなお天才でいられるケースは稀で、むしろ落ちぶれた天才ないし変わり者を育てる効果しかないのではないか、と特に画一性を好んで止まない日本を中心に、導入に懐疑的な姿勢がみられる。