常識
常識(じょうしき、英:common sense)とは、万人に共通する感覚又は知識という幻想である。
概要[編集 | hide | hide all]
常識とは、誰でも知っていることであり、common senseつまり共通感覚である。誰もが当たり前に知っていることが常識であるとされている。しかし、実際には、人々には、各人が「常識だと思う何か」はあるが、本当の意味での常識は存在しない。
「これ、常識でしょ」という側は常識だと思っていることは、言われた側にしてみれば、殆どの場合、全く常識ではないのである。
常識が当たり前のことではない証拠に、アンサイクロペディアンなどは四つも研究論文を出し、曖昧さ回避ページまで作っているほどである。
幻想の原因[編集 | hide]
常識という幻想が生まれる原因は、いくつか考えられる。
- DNAが酷似していること。チンパンジーですら約98%のDNAがヒトと共通しているのだから、人間同士のDNAには大差などあるはずがないのである[1]。
- 民族などの共同体意識が芽生えること。民族主義は代表例だが、それに限らず、学閥意識、会社意識、地元意識など、共同体への帰属意識は挙げればキリがない。それ自体が幻想なのであるが、この意識を維持するために、共同体の構成員全員に共通の何か、つまり「常識」があることにされなければならなかったのである[2]。
- 自分を基準に思考すること。簡単な話で、その人にとって当たり前のことは、みんなにとって当たり前であろう、という発想である。一種の認知バイアスということができる。
- 集団心理により、思考あるいはミームが収斂進化すること。朱に交われば朱くなるとはよく言われるが、実際同じような環境・境遇にいる人間は同じような発想・思考に至る傾向が見られがちである。
常識と民意[編集 | hide]
常識を民意で決めることだと主張しているサイトが存在するが、これは誤りである。何故ならば、常識そのものは幻想であり、民意・多数決による決定が可能なのは、せいぜい個々人が「常識だと思うもの」でしかないからである[3]。
常識と宗教[編集 | hide]
常識が宗教だと主張するサイトも存在するが、もしそうだとしたら、全員がそれぞれに教義の異なる邪宗に属していることになるので、大変なことである。故に、常識が宗教であるなどとは、ゆめゆめ主張するべきではない。
「常識的に考えて」とは[編集 | hide]
常識の成句として、「常識的に考えて」というものが存在するが、これは勿論「私の頭の中で当たり前だと思っていることに沿って考えると」という意味であり、詭弁の正当化や権威づけの役にしか立たないであろう。ちゃんとした主張は、常識を持ち出さずに行うべきである。
法律やガイドラインは常識たりうるか[編集 | hide]
常識を否定するに至ったウィキペディアでは、いい線まで行った所で皮肉にも、「逆説的に言えば、私たちの間では、文書化されている合意やガイドラインが唯一の常識です。」という余計な一文を加えてしまった。しかしながら、明文化された法律やガイドラインですら、解釈改憲のケースが示しているように解釈に多義性の余地があるため、常識として機能するとは言えないのである[4]。