徳川綱吉

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徳川綱吉(とくがわつなよし)とは、日本の武将、江戸幕府5代目将軍である。日本の将軍で唯一であったことでも知られる。

概要[編集 | hide | hide all]

1646年頃に生まれ、現在の群馬県にある館林で育つ。庶民の出としては異例の出世を遂げ、1680年に将軍の座に就き、「犬公方」の名で恐れられた。生類憐みの令(後述)により犬の地位を上げようと画策したが、多くの町民達から反感を買い、失脚する。その後、1709年に死去。

幼少期[編集 | hide]

文献によると、大工であった嘉兵衛という町民の元に捨てられており、それを嘉兵衛が飼い始めたという。好物がマグロであったため、生まれた時は「ツナ」という名前をつけられていた[1]。文字を書けるなど犬としては異常なまでに人間とコミュニケーションが取れたため、多くの町民達を驚かせていたが、その頃の性格は傲慢で横柄であり、素行も「気に入らない者には噛みつく」「嫌いな者の目の前で吠える」というものであったため、人々の評判はあまり良くなかった。しかし嘉兵衛には拾ってくれた恩義があったことで彼にだけはよく懐いており、また勉強の才があったことも含め、独り身だった嘉兵衛からは我が子のように大切に育てられた。

青年期[編集 | hide]

彼はその後も必死に勉強を重ねた。ある日勉強中だった彼をたまたま通り掛かった藩主が見つける。面白い犬だと思った藩主は直々に館林藩の武将の一人として取り立て、彼に「綱吉」の名前を授ける。この頃から横柄だった態度も次第に改まるようになり、金銭的に貧しかったこともあり徐々に倹約家となる。その後、館林藩の赤字財政を何とかしようと貢献した結果見事に黒字にすることに成功し、徐々に藩主の信用を得ていく。そんな中、突然藩主が急死する。藩主には後継ぎが居なかったため、これを受けて配下の武将達は綱吉派と反綱吉派に分かれた。しかし勢力としては若干反綱吉派の方が上であった。これを綱吉は謀略で反対派を掃討し、館林藩藩主になることに成功する。

将軍への道[編集 | hide]

その後4代目将軍であった徳川家綱の命を受けて参勤交代で江戸城に訪れた際、家綱に大変気に入られ、「良かったら俺の後継ぎにならないか」とまで言われた。ここでは近臣であった酒井忠清らが諌めたが、綱吉はその言葉を常に頭の片隅に置いていた。藩政は倹約第一であり、厳しかったが館林は活性化し、町民からの反応は中々のものであった。数年後、家綱が病死。後継ぎ会議に呼ばれた綱吉は有力家臣であった柳沢吉保[2]の後援を受け、いよいよ江戸幕府将軍に任命される。これには江戸城内でも多くの反発の声が上がったが、綱吉はこれを気に入らんとし関係者を処罰。これを機に、日本の黒歴史にして最悪の政治であった綱吉の絶対王政が始まる。

将軍としての政治[編集 | hide]

まず綱吉は江戸の町が困窮に喘いでいるのを察し、金の量を減らし鋳貨の製造を行う[3]。また、自分が特に好きであった朱子学を布教普及させるために朱子学以外の学問を禁じ、湯島に聖堂を建立する。そして犬の地位を高めるために犬小屋を増やし犬に餌を与えさせるようにし、また犬などの動物を愛護しなかった場合厳しく罰するとした[4]。特に厳しかった動物愛護令では、犬を捨てた町民を市中引き回しの上斬首とし、またそれを噂した者も斬首とした。町民だけでなく武士も刑罰の対象となっていたため、家臣達は大変苦労した。一方、自身は毎食マグロなどの派手で豪華な生活を送るなど手にした権力をほしいままにしていた。今の時代でそんなことをしてしまえば職権濫用で容赦なく弾劾されるだろうが、当時は将軍に意見できる者など誰一人としていなかった。しかし、これらの苛政に多くの人々が不満を漏らしており、綱吉が食べたマグロの餌に毒が混ざっていたという風刺絵が流行した。

死去、その後[編集 | hide]

その後、綱吉は長きに渡り人々を苦しめた後、63歳という犬としては異例の年齢で死去した。亡骸は上野寛永寺に葬られ、犬らしく墓石に「綱吉の墓」と彫られた墓に眠っている。なお、綱吉の死に町民は怒りのあまり寛永寺に駆け付け、綱吉の墓を足蹴にするという事態まで発生した。綱吉の後を継いで6代目将軍となった徳川家宣は生類憐みの令をすぐに廃止し、新井白石などの家臣達は貨幣の改鋳などに務めた。

脚注[編集 | hide]

  1. それって外国語じゃないんですか?というツッコミはナシで。
  2. 文献によれば、綱吉の撫で方が異常に上手かったという。これにより綱吉に気に入られたのだとか。
  3. が、結果としてかえって物価が高騰し逆効果となる。
  4. これが一般に呼ばれる生類憐みの令である。要は綱吉が出した動物愛護令の総称。