急を要する二段階
急を要する二段階(きゅうをようするにだんかい)とは、ウィキペディアでは進行中の荒らし行為と見なされている、交通戦争。
概要[編集 | hide | hide all]
ウィキペディアにおける迷訳は、あまり一般利用者には知られていない[1]が、日本国有鉄道は、二度にわたって、私有鉄道に収益性の高い路線のシェアを荒らされている。いずれも昭和時代から平成初期にかけて隆興し、関東地方や近畿地方での急激な人口増加に対し多大な輸送力を供給した。
前期[編集 | hide]
大正から昭和初期にかけて、電車の技術が進歩すると、旅客輸送を主目的にする鉄道が日本中に開業した。電車であれば(今ほどではないが)車両は軽量で、重い電気機関車を支える頑強な路盤が不要であり、蒸気機関車では上り下りが困難な急勾配があっても、勾配中に駅を設置しても、道路の交差点並みの急カーブでも、比較的運行が簡単である。
この時期には、東京急行電鉄、京浜急行電鉄、阪神急行電鉄(のちの阪急)、小田原急行電鉄の各社が敷設される。
特に東急、小田急の二社は、電気鉄道の利点を生かして、蒸気機関車では運行に適さない(御殿場線のように力技で特急列車を走らせた例もあるが、コストも時間もかかり、海沿いの熱海線ルートへ移転した)丘陵地帯へ路線を敷設し、丘の斜面を住宅とマンションで埋め尽くす絶景を引き起こした。
さらには、富士急行線など観光を主目的にした鉄道も敷設され、富士山麓の、これまた山岳地帯を(当時としては)軽快に往来していた。富士山麓の反対側には、富士身延鉄道が敷設されたが、こちらは速やかに国有化された。
この時期に生まれた鉄道は、現在でも多数の通勤客をベッドタウンから都心部へ輸送しており、繁盛を極めている。世界恐慌までに、小田急、京急、東急、阪急、富士急の各線が登場した。
後期[編集 | hide]
戦後復興が落ち着くと、日本経済は高度成長期に突入し、人口が急増する。住宅地が足りなくなったことから、それまでは未開の地であった千葉、茨城、埼玉にも住宅地が増設され、やはり輸送力の増強には急を要した。
この際に増設された急は
北急(北大阪急行、北神急行)、千葉急(現存しない)、磐梯急行電鉄(現存しない)[2]、伊豆急、智頭急行、北越急行
の7社であるが、磐梯急行電鉄と千葉急行は、いずれもバブルで爆死し、買収もしくは廃線に追い込まれた。
荒らし対策[編集 | hide]
これら私鉄各線に通勤需要を食い荒らされた国鉄は、通勤五方面作戦と称して大規模な投資を行う。15両編成の巨大通勤列車が東京を貫通する光景は、だいたいこの大整備に起因するものである。しかし、政府予算は自民党の党益に沿う自動車と道路に垂れ流されており、社会党の牙城である国鉄は、予算を大幅にカットされ、みごとに倒産した。
脚注[編集 | hide]