成功 (人生)
人生における成功とは、一生涯かけてひたすら名誉や地位をかき集めてきた人々に送られる、最上の皮肉である。
概要[編集 | hide | hide all]
人生において成功したとみなされる典型的な人々は、社長だの管理者だの大臣だのの名誉をかき集めた結果、それぞれの業務に時間を大きく取られてしまい、マズローの五段階欲求説によれば最上位に来るとされる自己実現には到底至ることなく、ひたすら自己顕示欲を満たすだけの、はたから見れば虚しいことこの上ない人生を送ることとなる。
そんな虚しい生き方は、とはいえ、そういう人々がいなければ回っていかない社会にとってはある意味で必要な人材である。そこで、そういう人々を見て、人々が送るのが、「彼/彼女は人生の成功者である」という皮肉を込めた賛辞なのである。
また、成功しなかった者は「成功してもどうせ滅びるし、最終的には自分よりも力が下になる」と内心信じているので、何らかのミスがあると即炎上させて一斉にバッシングを行う。そろいもそろってコンプレックス丸出しだとは気づかずに…。
組織における成功者[編集 | hide]

コミュニティや組織のトップに立つ成功者は、そのもっとも典型的なケースである。人によっては余生を書類に印鑑を押すことで過ごすこととなり、別の人は内的・外的な問題の対応に追われているうちに、組織の運営ビジョンを思い起こすことすらできない廃人に成り下がる。非常に活発に活動することが求められるため、しばしば過労死することにもなり、場合によってはそれを避けるために意図的に遅刻を重ねなければならなくなるほどである。
更に、成功者は大きな裁量と決断力が求められるため、しばしば大胆な決断が求められる。しかし、これは裏を返すと、常に陰で独裁者と揶揄される危険を抱えているということでもある。独裁者呼ばわりされてしまうと、チョビ髭を付けられたり、黒電話みたいな髪型にされたり、** is watching youのポスターを作られてしまったりする。
組織の外における成功者[編集 | hide]
組織の外における成功者は、しばしばソロの芸術家などのポーズをとる。しかし、結局のところ売れない芸術家は死後にしか名誉を得られないため、人生で成功する芸術家は、何よりもまず売れる芸術、大衆の理解が追いつく芸術を生み出すことを考える。結果として、自己表現よりも大衆受けが優先され、大衆に受けるがためだけに表現する哀れな道化に成り下がる。しかし、こうなってこそ、人々は、人生で成功したと表現する芸術家だという評価を下し、何はともあれ大金が入ってくるので、それなりに遊んで暮らすことができるようになる…はずなのだが、大抵の場合、成功するとその体験に妙な快感を覚えるらしく、むしろ自分から進んで展覧会を開いたり、締め切りに追われたり、無茶苦茶な投資をしたりして、やはり廃人の方へと虚しく向かっていく。やはり人生における成功とは、皮肉な賛辞に他ならないのである。
古典では[編集 | hide]
こうしたことは早くも平家物語の時代には知られていた。
〜 成功 (人生) について、平家物語
この句自体は中世仏教的な無常観に基づいたものだが、そもそもどんな成功者もやがては死ぬし、大抵の成功者は死の前に既に何らかの理由で、名誉・地位の集めすぎで軋みが生じて滅びへと向かっていく、という真理を当時の言葉で鋭く突いたものとなっている。
事実、平家は、最盛期の当主平清盛が死ぬ前には既に源氏の反乱に脅かされ始めていた。その後は当然、壇之浦までまっしぐらである。
また、更に遡ると、こんな古歌もある。
無論これは父藤原道長の有名な、されど歌としては今一つな古歌に対し、平等院を建て、宇治へと隠遁した晩年の頼通が返した言葉だと言われている。驚くべき素直さと単純さで栄華を誇った道長に対し、浄土思想の影響をより色濃く受けていた頼通は、既に栄華をはかなく思い始めていたようである。
結論[編集 | hide]
人生における成功は、ごく短い一生という期間の間ですら持続させることの難しい割に、自らが本当になしたいことから遠ざける虚しいものである。あなたが本当に望み通りの人生を送りたいなら、お酒などと同様、成功もほどほどにしておいた方がいい。
脚注[編集 | hide]
関連項目[編集 | hide]
翠色執筆コンテスト入賞 |
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この記事は、第2回翠色執筆コンテストで、3位入賞しました。加筆され過ぎて、ウソペディアにふさわしい、真実が見えない記事になったようです。対抗できるのは、化粧を施したうえでプリクラ加工された盛り写真ぐらいのものでしょう。 |