擬人法
擬人法(ぎじんほう、英:Prosopopoeia)とは、物事を人間に喩える文学の技法である。
概要[編集 | hide | hide all]
最新の脳科学の見地によると、人間は人の顔の検知に優れているらしく、例えば自動車の前面を比喩的に人顔と捉えたり、人面魚なる魚を発見したりする傾向があることが知られている。人間は、生まれながらにして、人間を発見する傾向があるのである。これは、最も原始的な擬人化ということのできる現象でもある。
擬人化が人間の脳の認知的傾向であることからも察せられるように、文学的な擬人法自体は文学以前の神話時代にも既に存在していた。
初期の文学が誕生した古代には無論、このような生来からの擬人化傾向を示唆する脳科学的な知見は存在しなかったが、早くもアリストテレスは人間を「社会的(政治的)動物」と呼び、人間が社会性を持つ生物であることを見抜いていたように、人間が社会の中に生きていることが知られていた。そのような動物たる人間にとって、物事を理解するには、人間に見立てる方法が分かりやすいということが経験的に知られていた。
このような経験から、やがて発達してきたのが、擬人法である。
寓話[編集 | hide]
イソップ寓話の作者として現代にまで名を伝えるアイソポスは、狐と烏、ウサギと亀など、多くの擬人的動物を登場させた寓話を創作した。これは、動物を擬人化すると同時に、擬人化された動物に、動物が持つと考えられる特徴を持たせることである種のカリカチュアを作成し、それによって教訓をユーモラスに垂れることのできる手法であることが分かった。
アイソポスの寓話が日本に伝わったのは安土桃山時代、南蛮人の渡来時だとされている。当時の口語体でイソップ寓話を翻訳(翻案)したのが伊曽保物語なのであるが、日本においても、擬人化を巧みに使った作品はそれ以前から存在していた。代表例が、現代では漫画の源流とも言われる鳥獣人物戯画であり、こちらは文学よりはむしろ絵画として、擬人化された動物(あるいはむしろ逆に、擬「獣」化された人間かもしれない)が当時の世相をユーモラスに体現している。
擬人法の限界と濫用[編集 | hide]
このように、擬人法は、物事を簡潔に表現・理解したり、ユーモラスに描いたりするのに役立ってきた。反面、動物の擬人化、特に認知的側面における擬人化の傾向は人間とその他の動物との認知システムの相違への無理解を引き起こし、宇宙をミクロコスモスである人間の拡大(マクロコスモス、vice versa)と見なす宇宙観・人間観は、宇宙への天文学的・物理学的理解を遅らせ、人間への解剖学的理解を歪曲する役割を担った。
又、要不要説[1]に沿ったラマルク型の進化論も、目的論的、擬人的に過ぎ、細胞組織や遺伝子に意思を持たせてしまったことで、後述のアンサイクロペディアンと同じような過ちを犯して棄却された[2]。
これらのことから、自然科学の勃興とともに、擬人法の限界が吟味されることとなり、擬人法は初等教育における暫定的導入[3]や、文学の範囲内に限られることとなった。
しかしながら、文学においても、擬人法の濫用は時にユーモアを減退させる効果がある。例えばアンサイクロペディアでは、olducp:大量絶滅、olducp:細胞など、自然現象を擬人化した記事が持て囃されているが、「もっともきつい皮肉とユーモラスな方法でもって、世界に嘘情報を広める」という目的に沿って考えた時、最早何を皮肉りたいのか分からなくなっており、児童と理科系の勉強をさぼり過ぎた文系社会人に向けた初級解説書に墜ちてしまっている[4]。
脚注[編集 | hide]
- ↑ 高い所の餌が食べたいからキリンの首は長くなるように進化した、という初期の進化論。生まれてから学習などによって得られた特徴(獲得形質)の遺伝を認める点が、ダーウィン以降の近代的進化論と大きく相違する。
- ↑ 但し、現代では、エピジェネティクス(発現の調節)という形での獲得形質の遺伝はしなくとも、獲得形質が遺伝子発現に影響を及ぼし得る(遺伝子そのものは変えないが、スイッチがオンになる遺伝子を変え得る)こともまた知られ始めている。
- ↑ 例えば、算数である。数える対象はリンゴでなくとも良いし、それを分けたり持ってきたり取って行ったりする人間が介在せずとも、加減乗除の演算は可能である。
- ↑ しかもこの二つの記事は、流行記事大賞上位、コンテスト優勝などの実績がある、アンサイクロペディアンに言わせれば「良記事」である。このことからも、アンサイクロペディアのユーモア研究生の研究成果のガラパゴス化がいかに進んでしまったかが分かるだろう。