歴代天皇 (ヤマト統一政権)

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
ナビゲーションに移動 検索に移動

歴代天皇(ヤマト統一時代)は、ヤマト政権が日本を統一した時代の天皇たちである。

参照

古墳時代(ヤマト統一時代)の天皇たち[編集 | hide | hide all]

15応神(おうじん)
本名は、ホンダワケ。この時代から本格的なへりくつ王朝の時代が始まる。しかしこの天皇には、ある疑惑がある。それは、名前を変えて2回天皇の即位したのではないかという疑いだ。12代景行天皇のへ理屈に、みな苦しんだ。へ理屈に反発したヤマトタケルという異端児も登場しその影響で単細胞天皇が続く羽目になった。武力征服段階はいいが、統一後は落ち着いた論理的な政治が望まれる。へ理屈政治を長続きさせるため、この天皇がのちに仁徳天皇に名前を変えたのではないかというわけである。後述するが仁徳天皇の本名は、一風変わっている。明らかにおかしい名前である。
巨大古墳を初めて作った天皇で、その建設のさい「土や石を車に乗せて運べば早くできるぞ」と天皇が意見したため建設が速く進んだ。このことから、この車による回転という技術がのちモーター付き車に発展し世界に羽ばたく日本の巨大メーカーが誕生しその際この天皇の名前が企業名に採用された…それは、真っ赤なウソ、でたらめである。「ホンダ」というあだ名は、「誉田」と書く。そう、天皇の素晴らしい治世のおかげで日本中の田んぼが誉(ほま)れある状態になったことに由来する。この言葉はコンダとも読むが、いずれにしても田んぼの状態を意味している。
神功皇后の胎内に69年間いたことから、「胎中天皇」とも呼ばれる。この69という数字により、応神天皇も少なからず神通力を有していた。夜中にこっそり古墳建設現場に出かけて神通力で土を空中浮揚させ運んでいたらしい。そのさい埴輪の馬を神通力で動かしていたところを、人に見られて記録されて今に残っている。この話は仁徳天皇陵を建設するときにも出てくる怪談である。ちなみに応神天皇陵と仁徳天皇陵とは互いに逆さまに向き合っているが、これも太極を意味する。
首都を2つに分け、1つは奈良県に置き、もう1つは大阪府に置いた。別に大阪が好きだったわけではなく、大陸に軍隊を派遣するのにいちいち山を越えさせるのが面倒だったからである。
16仁徳(にんとく)
本名は、オオサザキ。これは名前なのか?ありえない名前である。この名前を現代日本語に訳すと「巨大古墳」あるいは「大量古墳」という意味になる。古墳が名前なんて、これはおかしい。このことから、この天皇は実は応神天皇が再び天皇になったということがわかる。世界最大級の古墳を2つも作ったのであるから、このようなあだ名がつくのは当然であろう。しかもこの天皇の首都は、大阪府のみである。歴代の天皇の首都はいずれも奈良県が本拠地で、大阪府のみにするなんてありえない。
仁徳天皇陵は、別名大仙古墳ともいう。これは、仁徳つまり応神の神通力が年老いたことにより神仙化したことを意味する。年老いた天皇は、完全に人間の域を超えていた。埴輪の馬を操るなど雑作もないことだったろう。
皇后は3人いたが、そのうち有名なのはイワノ姫である。葛城氏の娘だったがこの女性は顔が岩のように固まって表情が見えずいつも怒ってるような顔だったので、天皇は浮気をするときいつもびくびくしていた。
17履中(りちゅう)
本名は、オオエノイザホワケ。無事に、応神天皇の論理的思考がワケの名により継承されて、応神・仁徳天皇はほっとして心静かに神仙の世界へ進んだことだろう。
「イザホ」というのは、田んぼの稲穂の辺りをうろうろしたことからついたあだ名で、歴代天皇と同じく農村を重視していたのである。ただ、その治世はわずか6年だった。「オオエ」というのはアニキという意味で、論理的に考えることができる落ち着いた君主として慕われていた。
18反正(はんぜい)
本名は、タジヒノミズハワケ。兄天皇は早世したが、無事にワケの名が弟天皇に継承された。「タジヒノ」は、遅れてきたという意味で、兄の後を継いだことを示すあだ名である。「ミズハ」のあだ名は、大阪湾の海辺で潮干狩りをするのが大好きだったことによる。
兄の履中天皇とともに大阪府で活躍し、愛着もあったことから二人の古墳は大阪湾の海辺に造営された。
19允恭(いんぎょう)
本名は、オアサズマワクゴノスクネという。応神(仁徳)・履中・反正と4代にわたって続いてきた論理による統治は、ここで終焉した。この天皇以降は、混乱の時代に入る。不敬かもしれないが、おバカな天皇が続出するのである。次の時代の蘇我氏専横の萌芽がかいまみえる。でも、ある意味平和な時代と言えなくもない。
この人物は末弟なので天皇になれるとは思っていずスクネという臣下に与えられる姓を称し、のんびりと朝っぱらから妻といちゃついていた。そのおかげで子供が温泉が湧くように次から次へと生まれた。そこに兄たちがわずか数年で崩御してしまう事態に。しかし長年の習慣はやめられず、天皇としての在位41年間朝っぱらから妻を雄々しく愛し続けたのである。ただこの男性ホルモンはくしくもその次男へと受け継がれるのであるが。
20安康(あんこう)
本名は、アナハ。「ハ」と記しているが、稲穂のことである。允恭天皇の長男。たわわに実った稲穂の前で「あな、あな」と叫んだのであだ名になった。あな、とは「おおーすばらしい」という意味の感嘆語である。正直、はた目から見れば阿呆のような光景である。まあ、天皇があほうでもおバカでもこうして稲穂がたわわに実っているわけであるから、民衆もこの光景を見て平和を謳歌したことだろう。
21雄略(ゆうりゃく)
本名は、オオハツセワカタケ。この名前の最期の部分「タケ」から、中国では日本の猛獣王と呼ばれている。かつてのヤマトタケルをほうふつとさせる単細胞の脳ミソと体力バカを地で行っている天皇で、男性ホルモンの塊である。ただ「ワカ」のあだ名からわかる通り早くから若ハゲに悩んでいたことからかろうじて理性を保ち、ヤマトタケルほどにはおバカでなかったのが救いで無事日本全国を統一することができたのである。
「ハツセ」というのは、歴代天皇で初めて川の中に浮かんでいる川中島つまり中州にキャンプし、泊まったことに由来する。ただ少し思慮が足りないのが災いして、上流で大量の雨が降っているのにもかかわらず臣下からの退避警告を無視して中州にとどまり続け危うく流される寸前だったことが何度もあった。おかげで臣下全員、心労のため若ハゲに苦しんだ。
22清寧(せいねい)
本名は、シラガタケヒロクニオシワカヤマトネコという。なんだかやたら長い名前であるが、これは父親の雄略天皇が名前を付ける脳ミソが足らず歴代天皇たちの名前から片っ端から引用して付けたものである。「タケ」は父親の名前。「クニオシ」(国欲しい)といっても、統一されてもう領土を拡大する必要がない。「ワカ」とあるが、本人は在位わずか5年で崩御し若ハゲになる時間もなかった。「ヤマト」は大昔の天皇の名前である。「ネコ」とあるが、別にネコ好きではなかった。
唯一固有の名前と思しきものは、「シラガ」と「ヒロ」である。もちろん若くして崩じたので白髪になるヒマもなかったわけだが、これは生まれたときに長生きしてくれと父天皇が子供の髪を白く染めたことに由来する。おかげでおバカな父親とは似ても似つかない心広き優しい天皇になったわけであるが、短命であったことは惜しい。
23顕宗(けんぞう)
本名は、ヲケ。クメノワクゴという別名も、ある。
この天皇が即位したいきさつは、複雑である。この天皇の父親は、履中天皇のむすこのイチノヘノオシハという名前の皇子である。普通なら天皇になりたいと願うのが皇子の性であるが、この皇子は「わたしは一戸(いちのへ)さえあればじゅうぶん」と非常に無欲であった。しかしその無欲さが仇になった。雄略天皇がこの皇子のカッコいい言葉を疑って、暗殺してしまったのである。欲があるのが普通で、ないのはおかしいとおバカな頭でも知恵が回った結果である。ただこれについては「一辺(いちのへ)」と言ったのではないかという説もある。一辺とは一国という意味で、つまりヤマト国家を一つ欲しいとも受け取られる。雄略天皇には残念ながらそこまでの深い思慮はなかった。
父親を殺された時、この皇子と兄皇子と姉皇女の3人の子供がいて当然追手がかかり逃亡して隠れた。なおこの兄弟、名前がよく似ていて兄の名は「オケ」という。別名は「オオシ」。名前だけでなく、顔も激似だった。しかし直接謁見した人は、一目で違いを見抜いた。兄は、足が異常にデカくガニ股歩きだった。弟は、目が奥に引っ込む癖がありそのため目ヤニが異常に湧いてしまいいつも手に鏡を持っていた。
この兄弟はどちらも早くに親を亡くしたので思慮が足りないところがあり、臣下が上奏してもおっけー、おっけーというばかりという有様であった。当時は英語なぞなく臣下は意味が分からなかったが、分かったという意味だとは想像できた。ただ弟のほうが「なになにを」と言ってから「おっけー」という口癖だったので、弟のほうが思慮が深いと判断され、弟が先に即位することになった。どちらにしてもちょっと頼りないことから、即位前に姉皇女のオシヌミノイイトヨアオという名前の女性が天皇代理として10か月ほど政治をしている。冒頭の「シヌミノ」は若いころ追手を怖がり「死ぬ死ぬ死ぬ」と口癖にしていたことに由来するあだ名。ただこの皇女も思慮が深いとはいいがたく、臣下の上奏に「いいとよ!いいとよ!」と繰り返すのみであった。ちなみに「アオ」は、阿呆という説と、青二才という説とがある。
在位はわずか3年であった。
24仁賢(にんけん)
本名は、オケ。別名オオシ。
弟天皇が若くして崩じたので、臣下はしかたなくこのガニ股大足おっけー兄さんを天皇にした。
25武烈(ぶれつ)
本名は、オハツセワカサザキ。オッケー兄さんのむすこ。歴代天皇の3人の特徴を有する、つまりよくわからない。「ハツセ」は雄略天皇に似てるし、「サザキ」は仁徳天皇に似ているし、「ワカ」は若ハゲのことであるがこの天皇は即位後わずか9年で若くして崩御している。しいて言えば単細胞な体力に物を言わせ全国各地の古墳をマニアックに観覧して回っただけである。殺そうにも天皇の位を争うべきライバルはいないし、古墳を作ろうにも戦争をやりすぎてカネがない。このころから天皇の価値が下がっていく。

氏族(大臣大連)時代の天皇たち[編集 | hide]

26継体(けいたい)
本名は、オオドまたはオホト。この名前については諸説あるが、その生涯をかけて王都を渇望していたことは事実である。継体天皇は、その治世で4か所(大阪府に1か所、京都府に2か所、奈良県に1か所)に王都を建設した。1治世で4か所の王都を作ったのは、他に反乱が怖くて逃げまわった聖武天皇だけである。本来は現在の福井県でのんびりと田舎暮らしをしていた皇族で、天皇家の本家の血筋が絶えたためしかたなく天皇に迎えられた。臣下にとってはしかたないことだったが、本人はやる気満々でさっそく王都づくりに着手したところ臣下から金がないので中止せよと言われ不満爆発。勝手に大阪府枚方市樟葉(くずは)に王都を作った。もちろんその姿は王都というよりは、掘立小屋群でしかなかった。その後も、京都府京田辺市や京都市右京区大原にも勝手に王都を作った。けっきょく臣下も観念し、初代天皇の故郷である奈良県イワレ村に既存の建物を流用した王都の建設を認めた。
このように王都の建設でさえ臣下の顔色を窺わねばならない時代に入った。なおこのときの臣下の代表者は大伴カナムラという。なんのことはない、その名前が示すとおり大伴家の蔵には財宝が有り余っていて村々に分け与えても余裕という体であった。
27安閑(あんかん)
本名は、マガリノオオイネ。別名として、ヒロクニオシタケカナヒというのもある。継体天皇の長男。その治世5年間は王都が存在せず、記録に残っている王都は実はある氏族(大伴氏)の邸を間借りしていたものである。自前の王都の建設計画は何度も作られたが、財政難を理由にすべて中止になった。「ヒロクニオシ」とは「ああー広い土地が欲しい」という天皇の口癖であり、「カナヒ」はカネがないという意味である。「タケ」のあだ名が示す通りけっこう武闘派タイプだったが、いかんせん征服すべき土地はなかった。
28宣化(せんか)
本名は、タケオヒロクニオシタテ。別名は、ヒノクマ。安閑天皇の弟。兄と同じく武闘派タイプで、自らクマを生け捕りにし火であぶって豪快に食べたという。しかしそのような豪傑も、この平和でしかも臣下が政治を牛耳る時代には何の意味もないのであった。ああー広い土地が欲しい欲しいとこの天皇も言い続けたのは、兄天皇以来王都の大伴邸間借り状態が続いていたからである。
この兄弟の治世は、わずか5年ずつと短い。若くして崩じたのではなく、父親が天皇になったのが遅かったからで兄弟が即位したときはすでに二人とも中高年の年齢であった。
29欽明(きんめい)
本名は、アメクニオシハルキヒロニハ。別名は、シキシマ。継体天皇の三男で、長兄次兄とは異母兄弟である。この名前の中の「オシ」は欲しいという意味ではなく、後の「ハルキ」と連結し押し広げたという意味である。征服したのではなく、海外に目を向けた、国際化したという意味。海外の文物を広く受け入れ仏教を初めて輸入した時代である。なお、このころの臣下の代表者である蘇我氏は、渡来系ではないかという疑いもあるがこのころの大臣の蘇我イナメの名前から、蘇我氏が田んぼの管理に精通していたことが分かるれっきとした日本民族である。
この天皇は異母兄たちと違い草食系のがり勉男子で、中国語を必死に勉強した。母親が違うとこうも違うという例でもある。異母兄たちの母親は愛知県人で、現代は都会だが当時はど田舎であった。母親の実家で育つ子供たちがど田舎の気風に染まり野性的な感じになるのも、当然である。それに対しこの天皇の母親は皇女でタシラカという名前。手が真っ白だったつまり太陽光に生涯当たったことがないという引きこもり…もとい箱入り娘であった。
国際化の影響で、ヤマト国家の地理が判明した。天皇はヤマトが島だと知って大いに驚き、敷物にどん、としりもちをついた。