ナンセンス
ナンセンス(英:nonsense)とは、意味をなさないもの、又は徹底した非論理性を持つものである。
概要[編集 | hide | hide all]
滅茶苦茶なこと、常識外れなことは、時にそれだけで笑いのタネとなる。ナンセンスはセンスが欠落しているので、ユーモアと違って、物事の理解をベースに適当な風刺を混ぜる面倒な作業は不要で、自己言及的なページに求められるような難解なcssいじりによる完成度の追求も必要なく、ただひたすら滅茶苦茶でありさえすればよい。あまりにも人々の理解からかけ離れてしまうと、時として却って興醒めになることもあるが、ナンセンスな笑いを得るにあたっては、論理を壊す力と、最低限の常識があればよいので、ユーモアも皮肉も気にせず、気楽に、好き勝手に筆を運べばよいのである。
ナンセンスの意味[編集 | hide]
ナンセンスは字の通り、意味などない。しかし、時として人はそこに意味があると勘違いし、哲学の対象にすらしてしまう。分からない何かには深淵な意味があるに違いないというあの思い込みこそ、一つの認知バイアスだとは気付くことなく…。
ナンセンスと笑い[編集 | hide]
ナンセンスでも、「おかしみ」[1]があるものは笑いを巻き起こす。その滑稽なさまはスラップ・スティックコメディのドタバタなどを見ればよく分かるだろう。しかし、意味がない物が何故おかしかったりおかしくなかったり、あるいはおかし過ぎて可笑しさが分からなかったりするのかは、誰も気にしないし、誰にも分からないのである。
ナンセンスと知[編集 | hide]
ユーモア、特に知的ユーモアはそれを理解するのにも一定水準以上の知的能力が要求されるが、ナンセンスはバカや荒らしやLTAでも理解することができる。何故なら、理解する必要がないからである。理解する必要がない以上、理解していなくても、理解したのと同じなのである。
ナンセンスと知 Part 2.[編集 | hide]
しかし、ナンセンスを小難しくするのに、知的能力は役に立つ。尤もらしく専門家面して、大真面目に、適当な数式でも書き連ねればいい。筒井康隆か誰かの小説には、そんな例もあっただろうし、何ならENUCPの難解なタイトル、難解過ぎてエラーになっている数式群を眺めても良いだろう。ただし、哲学の世界でこれをやり過ぎると、アラン・ソーカルによってその欺瞞が暴かれ、学問としては破綻してしまうので要注意である。
専門家気取り[要出典]によると[編集 | hide]
ナンセンスはユーモアの一部に回収されている。ユーモア欠落症にかかると、ユーモアとウィットとエスプリとナンセンスの区別も覚束なくなるようだ。お陰様で、彼らを参考にユーモアの研究に打ち込む人々も参考文献を間違えて、ユーモアと笑いの区別がろくにできない状況になってしまったではないか。
全く、それこそナンセンスである。