真実

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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真実(しんじつ、:truth)とは、ウソペディアでは記事のスパイスウィキペディアでは出典ほどの価値もない無意味な情報学者にはの到達点として存在するものである。

概要[編集 | hide | hide all]

真実は、そこら中にあるかもしれないし、ないかもしれない。あなたの感覚が正しければ、あなたの感じ取る世界は真実である。しかし、錯覚錯視等によって簡単に欺かれる感覚、哲学的にはそもそも存在するかどうかすら怪しい外界を存在すると見なす感覚が、正しい保証はどこにもない。従って、結局そこら中にあるかもしれないし、ないかもしれないのが、真実である。

ウソペディアと真実[編集 | hide]

ウソペディアでは、記事のメインディッシュはであり、ユーモアである。このため、真実はそこに説得力を増すためのスパイスとしての役割しか果たさない。しかし、このスパイスが中々重要なのは、ナンセンス架空国記事のような、絶対的な嘘を見れば明らかである。

しかし、多すぎるとそれはそれで難解極まりない記事になったり、シュルレアリストですら思いつかないような奇妙奇天烈、怪奇極まりない姿を現し、最早ユーモアが欠落してしまうこととなるので、{{事実多すぎ}}によって警告が貼られることとなる。

ウィキペディアと真実[編集 | hide]

ウィキペディアでは、内容が真実であるかよりも、出典に基づいているかが重視される。昼の晴天の空が青い事にも出典が必要とされるほどである。しかし、出典は、誰でも見られ、信頼できると思われるものであれば何でも良いのである。その信頼の根拠は、学術的価値があると認められている、専門家が検証・分析している、など、専ら権威に基づいているので、これによればスコラ哲学も信頼に足り、論文捏造を複数件出している某大学や、仮説に間違いを認めたことのある世界的な物理学者や、自著出版に至ったネトウヨなども、全て信頼に足るソースになり得るのである。

こうして出典だけ貼られているのだから、後に残された真実の多さは言うまでもないだろう。

学問と真実[編集 | hide]

学問においては(しばしば宗教においても)、真実はその到達点とされる。不完全なが、いつか、恐らく誰もいなくなった時か、永久の時間が流れた時か、いずれにせよ人類想像も及ばないような遥か先に、やがて完全になることを盲信し(あるいはそれすら疑いながら)、今はとりあえず仮説を経てて少しだけ前よりも多くのことを説明できるように日々刻苦しているのが学問であり、真実は、その遠近法的な消失点である。

真実の前には、学者たちは、「我々はここまで来た」と誇らしく思うと同時に、「我々はまだここにしかいない」という虚しさをも抱くこととなるのである。学者にとっての真実とは、傍から見れば無神論者にとってののようなものなのに、そのことが通常は学者自身からは意識されないものなのである[1]

脚注[編集 | hide]

  1. 意識してしまったら、その学者は自らの「完成し得ない営みを完成させる」という矛盾した目的に悩み、鬱病を発症し、学術研究どころではなくなってしまうだろう。