翻訳

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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翻訳(:translation、仏:la traduction)とは、別の言語で書かれた文学作品を土台とした文学的表現技法である。

概要[編集 | hide | hide all]

辞書的には、翻訳とは、

  1. ある言語で表された文章を他の言語に置き換えること。
  2. 符号や分かりにくい言葉、特殊な言葉などを一般的な言葉に直すこと。

をいう。1の意味が最も広く知られているものの、この意味はより広い2の意味に包含されている。2の意味における主語が何であるかによって、「分かりにくい言葉、特殊な言葉」と「一般的な言葉」は変化するが、1の意味もその図式の一例として表せるからである。

主語 「分かりにくい言葉、特殊な言葉」 「一般的な言葉」
細胞 メッセンジャーRNA タンパク質
コンピュータ[1] 高級言語[2] 機械語[3]
人間 母語以外の言語 分かりやすい母語

以下では、エラーが発生しない限り一意的に結果が定まるコンピュータや細胞による翻訳ではなく、結果が多様になりやすい人間による翻訳を主に扱う。

ポイント[編集 | hide]

人間による翻訳のポイントは、単に母語に辞書的定義に沿って直訳すればよい訳ではなく、「分かりやすい」母語に訳さなければ翻訳とは言えないことである。例えば、

  1. When in Rome, do as the Romans do.
  2. Never put off till tomorrow what you can do today.

を、そのまま日本

  1. ローマにいる時はローマ人がするようにしなさい。
  2. 今日できることは決して明日まで延期するなかれ。

と訳してしまうと、元の英文がだったという情報が「分かりにくく」なってしまい、その文字通りの意味を離れた含意も隠れてしまう[4]。このため、思い切って日本の対応する諺

  1. 郷に入っては郷に従え。
  2. 明日やろうはバカ野郎。

と訳した方が、母語としては「分かりやすく」なるのである。

ところが、何が「分かりやすい」かは同じ母語の話者でさえ、時代地域年齢その他様々な条件によって変化する。これには正解はなく、翻訳者は結局のところ、自身にとって分かりやすい母語か、自身の想定する一般的な母語話者にとって分かりやすい母語を目指す他なく、そうして生まれる訳者間の差異によって、文学的表現法としての余地が生まれるのである。

代表的翻訳[編集 | hide]

  1. I love you. → が綺麗ですね。(夏目漱石による訳)
  2. 森鴎外訳『即興詩人』 - 当時、アンデルセンの原作を凌いだとまで言われた名訳。
  3. 与謝野晶子訳『源氏物語』、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 - 紫式部の原作(古文)を現代語訳。
  4. I love you. → 831 - 現代英語圏の若者言葉訳。"8 letters, 3 words, 1 meaning"から。
  5. 1で10を知る - ウソペディア屈指の名訳。

翻訳と翻案[編集 | hide]

言語が変わる場合の翻訳と翻案の線引きは、殆ど不可能である。辞書的には、翻案とは「既存の事柄の趣旨を生かして作り変えること。特に小説・戯曲などで、原作の筋や内容を元に改作すること。」であるが、「分かりやすさ」が入り込まざるを得ない翻訳は、ある種の「作り変え」を不可避・不可分なプロセスとして含んでいるからである。

ヨーダ倒置語法を無かったことにしてしまうなどの「大胆な改変」は、思い切って翻案と言い切っても差し支えないだろう。が、慎重に為された翻訳は、文学者でもない限り敢えてこれを翻案だとは言い直さない。翻訳と翻案との違いは、その程度のものである。

結局のところ、翻訳者は原作者の肩の上に立って、自分の文学作品を発表せざるを得ないのである。それは表現技法であると同時に、逃れられない表現なのである。

機械翻訳も文学か?[編集 | hide]

機械翻訳がなかった時代の翻訳論としては、上の内容でもある程度十分である。しかし機械翻訳が現に存在する以上、主語がコンピュータ(人工知能)である新たな翻訳にも触れないで済ますことはできない。

古典的な機械翻訳は、機械誤訳又は機械伝言ゲームであり、訳の正確性よりもその珍奇さが評価基準であった。しかし改善が進み、iliのような携帯型翻訳機が発売された今となっては、昔に比べるとある程度正確な訳を見ることができるようになりつつある。とは言え、機械翻訳が目指す者は機械直訳ではなく、文章生成プロセスがプログラムの作者にさえ追尾困難なほど複雑化しているとはいえ、プログラムの設計者や、利用者のフィードバックによる「分かりやすさ」として蓄積された膨大なデータに影響されており、やはり「分かりやすさ」から逃れることはできない。

この意味では、機械翻訳も文学的表現であることから逃れることはできないのである[5]

また、機械翻訳で遊ぶ人がいるので娯楽としての機械翻訳ということの方が近いかもしれない。

サルでも分かる要約[編集 | hide]

翻訳した作品は、機械翻訳によるか人間の手によるかに関係なく、訳者の考える「分かりやすさ」が混入するため、結局は原作者の作品ではなく、訳者の作品になってしまうのである。

読書案内[編集 | hide]

複数の訳者による同一作品の訳文を読み比べると良い。先述の現代語訳『源氏物語』でも良いし、シェイクスピア文庫本の出版社毎や新旧訳の比較を行っても良いだろう。シェイクスピアに限らず、海外古典であれば大抵簡単に複数訳を比較できるので、気になる作品で試すと良い。

「だって、これは経験者にしか分からないユーモアだから…」
翻訳 について、似非インテリの初版投稿者

脚注[編集 | hide]

  1. プログラム言語の解釈において。
  2. 人間自然言語に近い姿を取るプログラミング言語
  3. 1と0からなる、コンピュータ向けの言語。
  4. 東洋文化圏に属する日本人にとっては、ローマ文化との親和性がそれほど高くはないので、「ローマ人」などと言われてもなかなかぴんと来ないだろう。
  5. 人工知能が文章を生成した「作者」であることは、文学性を否定する根拠とはならない。実際、SF作品のコンテストである星新一賞のエントリー作品の一部は、既に人工知能である。

関連項目[編集 | hide]