自己言及的なページ

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』

自己言及的なページ(じこげんきゅうてきなぺーじ、:pages that look like the things they're about)とは、百科事典博物館とみなして作成される、一連の記事群の事である。

概要[編集 | hide | hide all]

人間情報源の8割は視覚的情報だと言われており、テレビ新聞ラジオを駆逐するメディアになったことからも分かるように、しばしば複雑な内容を視覚的に提示することが、人々にとって最も内容を理解しやすい方法であることがある。このことを踏まえ、ウソペディアアンサイクロペディアでは、本来文章として表現されるべき百科事典の記事を敢えて視覚的に、実物に似せて記述する技法を用いて記事を作成することがある。

このような記事(群)が、自己言及的なページと呼ばれる記事群なのである。

特徴[編集 | hide]

ユーモアを盛り込むにあたって、視覚的な芸術表現がもたらすインパクトが、あらゆる文章に勝ると考えられる場合には、自己言及的なページの作成は大変有用である。しかしながら、視覚的インパクトは、どんな美人もそれだけでは3日で飽きられるのと同様、繰り返し閲覧された場合には容易に陳腐な内容に変わってしまう。このため、ウソペディアでは方針により自己言及的なページは原則として秀逸な記事には認定しないこととなっており、いくつかの記事が秀逸な記事に認定されているアンサイクロペディアにおいても、新規作成された自己言及的なページの審査は厳しく行われることとなりやすい。

一方で、自己言及的なページは、その気になれば画像1枚でできることや、対象に似せた視覚的表現を行うだけで容易に作成できてしまうことから、比較的乱立されやすい傾向にあるのも特徴である。このような乱立行為は、一般にはユーモアのセンスがまだまだ発展途上の新規ユーザーが行うことが多い[1]

自己言及的なページは、英語名が体現しているように、項目名とされるページに似た見た目になっているため、あまり増えすぎると事物を言語で記述する百科事典から離れ、物品を陳列する博物館に近付いてしまう傾向がある。このため、初心者向けの一般論としては、可能ならば自己言及に頼らず、言語をベースとした百科事典記述を心掛けることが望ましいとされている。

有効な活用法[編集 | hide]

しかしながら、中には真に自己言及が有効な場合もある。例えば、マルセル・デュシャンの場合は、レディーメード作品を多数芸術として発表してきた経緯があるので、敢えて画面上でデュシャンの泉を再現することによって、却ってデュシャンの本質的な特徴を捉えることが可能となる。

このため、ある程度執筆経験があるベテラン執筆者は、時によって敢えて自己言及的な手法を用いることも手段の一つとみなすようになる。ベテラン執筆者にとって、自己言及的な手法が有効であると考えられるのは、対象の言語性が乏しく、むしろ視覚的な情報によって記事を構成した方が一枚の風刺画としての完成度が上がる場合である。このような事例には、ウィキペディアの要出典の多さを皮肉った要出典が挙げられる。

また、自己言及を敢えて手法に取り入れる場合でも、ただの自己言及で終わらせず、中に百科事典的記述を入れることで、自己言及の良さを生かしつつ百科事典的な文章によるユーモアを含ませることもできる。このような事例には、虚無主義が挙げられる。

このように、自己言及的なページには、敢えて手法として取り入れることがユーモアを増幅する事例もあるので、適度な範囲内であれば、自己言及は有効な活用法もあるのである。

自己言及と模倣[編集 | hide]

自己言及的なページは、先述のようにしばしば模倣されやすい。これは、定番ネタと同様、それを用いればとりあえずは一定の面白さらしきものを確保できる場合も多いからである。しかしながら、これも定番ネタと同様、濫用されれば模倣元の作品の面白さすら損なわれてしまうということで、アンサイクロペディアでは二番煎じあるいはN番煎じとして処理されることが多い。

模倣され乱発されたら面白さが失われる理由は、自己言及的なページには市場価値同様、希少性による付加価値があるからだと考えられている。美人慣れしているイケメンが新たな美人を見てもさほど心を動かされないように、自己言及的なページも見慣れてしまうと陳腐に感じられてしまうのである[2]

ウソペディアにおける自己言及的なページ[編集 | hide]

ウソペディアにおいては、比較的自己言及的なページが作成されやすい傾向がある。沈黙系記事の一群のように平然と模倣が行われていることに加え、項目数が少なく、まだまだ発展途上の段階にあることや、気に食わなければフォーク制度を使って二本目の記事を作成し直せること、MJYこそあれ、基本的にはどんなに面白くなさそうに見えるページでも人々のユーモアのセンスの多様性に一片の希望を見出し、原則として削除されないことなどが原因だと考えられている。

エンペディアにおける自己言及的なページ[編集 | hide]

エンペディアは謎の百科事典もどきであり、一般記事でなくてはならないという方針も何にもないため自己言及的なページを建てる事ができる。それどころか私論でこそあるもののアンサイクロペディアのような記事でも良いと書いてあるため、自己言及的なページも百科事典として捉えれば多い。

実に161ページ[3]も存在し、百科事典としては非常に多い部類である。

ウィキペディアにおける自己言及的なページ[編集 | hide]

あの頭の硬いウィキペディアに自己言及的なページなどあるはずないと思われていたが、2007年1月に立項された正誤表は記事中に実際に誤字が組み込まれており、れっきとした自己言及的なページであった。

そしてその状態で8ヶ月も存続したためウィキペディアの自己言及的なページの第1歩かと思われたが、同年9月に正しい漢字に直されてしまったため「もしも間違っていたら」という内容になってしまった。やはりウィキペディアに自己言及的は受け入れられないようだ。

脚注[編集 | hide]

  1. 特にアンサイクロペディアでは、なまじ秀逸な自己言及ページが見られるために、自己言及的なページが最も優れたユーモアだと勘違いされやすいと考えられる。
  2. この模倣の問題は、芸術産業においても深刻である。新規作品やサービスの革新性は、そのようなものが出てからすぐ類似品・サービスが出回ることによって瞬く間に失われてしまうからである。著作権特許による対策も講じられはするが、情報公開が進み、第三者による再現可能性が高まっている現代においては、あまり功を奏してはいない。
  3. 2023年8月25日現在

関連項目[編集 | hide]