自由

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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自由(じゆう、:Liberty, Freedom)とは、自分が何でもあるいは何かを、自分の思い通りにできるという思い込み又は錯覚である。

歴史[編集 | hide | hide all]

さあ、右手をグーにしてみよう。

神と自由意志[編集 | hide]

自由の起源は西洋に存在する。古来、キリスト教においては、全てを支配する決定論的なと、人間が思うところの「自由」、あるいは「自由意志」との関係性は、神学上の難問の一つであった。私やあなたが「右手をグーにする」と思ったとして、その右手を思い通りにすることは、脳卒中などによって麻痺しているか、地雷でも踏んで右手を吹き飛ばされているか、あるいは単に寝ていてそもそも思うことができる状況にないかでもない限り、通常は可能なことである。

しかしながら、全てが神の支配下にあるのであれば、右手がグーになることに介在すべき意志は、私やあなたの意志ではなく、神の意志でなければならない。

よって、この右手が真に私の思い通りになるのであれば、神の存在と矛盾する。こうして導き出されたのが、最も古典的な形での「自由とは錯覚である」という結論であった。すなわち、私やあなたがそう思うこと自体が神の制御下にあって、結局のところ、右手は、実際には神の思い通りになっているにもかかわらず、私やあなたからすれば、自らの思い通りになっているように見える、という考え方である。

市民革命と自由[編集 | hide]

自由は女神であり、理性と共に私達が自らを導く力となる。さあ、立ち上がれ、諸君よ!

しかし、この結論に対しては、そもそも神は存在するのか?という反論が存在する。仮に存在したとしても、近世に入り次々と明らかになった科学的事実に基づくと、どうやら神は世界のルールだけ作って後は放置した可能性もある

そうであるならば、この世界のルールの中に、自由意志を持ってはならないという項目がない限り、自由意志は持てるはずである。そして、神の名を借りて民衆を支配している国王は、我々の自由を不当に犯していることとなる…。

こう考えた思想家たち、ジョン・ロック啓蒙思想家、ジャン・ジャック・ルソーらの影響を受けて、イギリスフランスを中心としたヨーロッパ各国では、革命が引き起こされてきた。

彼らに言わせれば、神がこの世界を作ったにせよ、あるいは神がこの世界そのものであったり、そもそも存在しないとしても、そんなことと関係なく、私やあなたが右手をグーにしようと思えばできる以上、我々には自由意志があり、その意志を反映しつつ国家という契約を成り立たせることでこそ、人々、国家、そして世界は正しい方向へと導かれる、ということであったが…。

ヨーロッパに先駆けて最も民主主義的な国家になったアメリカ合衆国は、その後南北に分裂して戦争したし、先住民は虐殺したし、婦人参政権ではニュージーランドよりも遅れたし、世界で唯一核兵器実戦投入したし、今ではメキシコに壁を作り、パリ協定は離脱し、先進国では数少ない社会となって殺し合っている、という素晴らしい状況である。

…ということで、どうやら彼らの思考過程のどこかに誤りがあったらしいことは、今となっては明白なことである。もちろん、その過ちは、そもそも自由意志の存在を認めたことである。人々は結局、「面白そう」「何となく」「そうすればヤらせてくれる」[1]などの下らないか、本能に近い理由で群れを成して蠢いて方向を間違えるだけである。

結局、自由意志と思われる何かの下で人々が選ぶリーダーは、しばしばサルよりも優れた喜劇役者になりやすいのだ。リアリティショーと同じぐらいには暇をつぶせないと、やはりどうしようもないらしい。

え?舞台が新大陸なのが悪いと反論したいなら、ドイツの悪名高き独裁者も当時最も民主的とうたわれた憲法の下で、極めて民主的に選出されたという史実をトドメに残しておこう。

科学と自由[編集 | hide]

ニュートン力学とラプラスの絶望[編集 | hide]

ラプラスの悪魔は、エナジードリンクになるほど、後世へ多大な影響力を残した。

もう少し賢い人々は、既に自由が錯覚であるということに、アイザック・ニュートンの力学がもたらす当然の帰結として気付いていた。もっともよく知られているのが、「自由という幻想を完膚なきまでに打ちのめす」ラプラスの悪魔を考え付いた、ピエール=シモン・ラプラスである。

ラプラスによれば、この世界を構成する全ての粒子について、ある時点でのニュートン方程式と、ある時刻での位置が分かれば、その時点以前・以降の全ての物質の状態が理解できるという。

ラプラス本人が知性と呼んだこの装置については、実際にはコンピュータを用いるとしても、それ自体がかなりの規模になる、などの実現困難性を(古典力学の範囲内で既に)秘めているが、思考実験としては時の力学のもたらす究極的な帰結として妥当なものであった。

すなわち、私やあなたが右手を思い通りにグーにすることができるというのは、やはり錯覚であり、既に決まっていることに対し、後から自分の意志によるものだった、と言わば後付けすることしかできないのである。

量子力学と自由意志[編集 | hide]

このが確率的であることが、マクロスケールでの自由の存在証明になるんだって?

しかし、教養豊かなウソペディアンであれば、そもそも古典力学が必ずしも正しくないということを十分承知しているはずだ。そして、誤った前提からは、どんな結論も導き出せるが、それは論理学的に恒真であるという以上に、意味がないことも。

事実、マクスウェル方程式が導き出した光速度不変性相対性理論を生み出し、光電効果コンプトン効果の説明の必要性は、量子力学に至った。そして、自由意志が実在すると考える人々にとって、最後の砦となったのも、この量子力学であった。

量子力学によれば、物体の位置運動量、あるいはエネルギー時間不確定性の積は、ある値を下回ることがないことが知られている。また、シュレディンガーの猫の思考実験で知られるように、素粒子の挙動は、確定的ではなく、しばしば確率的であることも知られている。

要するに、確定できないなら、そこに自由の介在する余地があってもおかしくないだろ、というのが、最も現代的な自由意志実在論支持者の主張である。しかし、これにもまた、ツッコミどころはいくつか存在する。

第一に、私やあなたカジノディーラーでもない限り、サイコロの目を一定の値に選んで振ることなどは到底できないであろう。確率的とはそういうことであり、確定的でこそないものの、私やあなたに選ぶ余地も又ないのである。

第二に、多世界仮説に基づけば、全ての確率的に可能な世界は実現する。すなわち、シュレディンガーの猫で言うなら、私やあなたはふたを開けるまで、この猫が生きている世界にいるか死んでいる世界にいるかは分からないものの、どちらの世界も実現はするのである。これと同じで、私やあなたが右手をグーにしない世界も存在するかもしれないが、私やあなたが、自らの意志で右手をグーにしたつもりであっても、それは単に、あなたがたまたま右手をグーにする世界に入ったということを意味するだけの可能性は十分あり、しかも、あなたの行為が確率的であるなら、右手をグーにしない世界が生まれることを防ぐ手立ても待たないのであるから、あなたにとっての自由意志は、やはりまた錯覚でしかないのである。

脳科学と自由[編集 | hide]

そもそもこの女神が動かぬ石像であること自体が、自由が錯覚であるいい証拠ではないか。

脳科学によれば、私やあなたが何らかの行動をする意思表示をする0.2秒前には、は既にその行為を行う指令を出している。すなわち、私やあなたの意志よりも先に脳は決定を下しているのであって、私やあなたが「右手をグーにしろ」と思っているときには、私やあなたには、既に他の選択肢はないのである。

よって、ここでもまた、自由とは錯覚でしかないことが示される。結局は神学が出した結論が繰り返され、脳が出した指令が、後で自由意志として上書きされることになるのである。

哲学と自由[編集 | hide]

あなたは、全ての科学的結論を排して、それでもなお自分は自由だと主張するかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。私やあなたは、結局はいつかぬのであり、人生はそれまでの過程に過ぎないのだ。あなたの自由は、死刑囚の持つ自由と、せいぜい程度の差でしかない。

日常生活と自由[編集 | hide]

難しい話が過ぎた。いくら教養豊かなウソペディアンでも、そろそろダウンしてしまうかもしれない。あるアンサイクロペディアンに言わせると、これはLTA固有の特色らしいので、そろそろもう少しイージーなサルでもわかるたとえ話に戻ろうと思う。

早い話が、あなたサラリーマンなら、自由があるつもりでも、せいぜい遊びどころは行きつけのキャバクラや飲み屋や雀荘で、普段は毎日のように満員電車に揺られて、社畜をやっているだろうし、学生なら学生で、やはり満員電車に乗って一生懸命に学校通いだ。

本当に自由なら、そこからある日突然外れることもできるだろうに、殆どの人々は色々と理由を付けて実際にはできないし、できたとしてもせいぜいが不良ニートどまりだ。これこそ、あなたが自由だと思っていながら実際には自由ではない、何よりも証拠だろう。

それでもまだ、あなたには自由は存在すると主張したいかい?

脚注[編集 | hide]

  1. 実際、ある民主党員は似たり寄ったりの告白をしている。