芸術

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』
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芸術(げいじゅつ、:art)とは、あなたがそうだと認めるもの全てである。究極的には、世界でもある。

概要[編集 | hide | hide all]

芸術とは、作者や鑑賞者が芸術を定義しようとする試みであると同時に、ある作品を芸術である/芸術でないと主張する試みである。しかし、実はそもそも(芸術)作品とは何かの定義も、このような試みの中で変動しうる。

芸術の担い手は、芸術について判断を下すあらゆる人間であるため、必ずしも芸術家であるとは限らない。勿論、芸術家もマルセル・デュシャンのように大胆な主張を行うこともあるが、圧倒的多数は鑑賞者の立場から芸術を判定する。

artは全てartificial(人工的)である。何故ならば、それを定義しようと試みる芸術家や鑑賞者がいなければ、芸術は成立しないからである。

特に20世紀以降の芸術家は、常人には理解しがたい作品を多く提示するが、その理論的な終結は、常人でも理解できる。

結局のところ、芸術とは、最も拡張された定義においてはこの世界の全てなのである。何故ならば、世界の、少なくとも観測可能な宇宙の全ての事象は、自覚的であれ無自覚的であれ、常に人々に観測されており、観測されうる全ては、観測されることによって観測者の影響[1]を受けた人工的な何かに変わるからである。芸術家は、そうした無数の人工的な何かから、新たな切り出し方を提示しているに過ぎず、鑑賞者も作品・作品群などの境界線を変更することで、新たな作品の切り出し方、分節法を提示できるのである。

かくて、芸術においては、鑑賞者と制作者・芸術家との境界すら曖昧なものとなる。いずれも芸術を定義しようとするが、便宜的には、定義に当たって具体例を実際に作ってしまうのが芸術家であり、実際に作らず頭の中で考えるのが鑑賞者だということもできる。が、鑑賞者は鑑賞の際の観測行為によって、最も些細なレベルにおいても作品に影響を与える芸術家であることを免れられず、芸術家もまた、自作を観測することなしに制作はできないので、鑑賞者としての性質も帯び得るのである[2]

あるケース[編集 | hide]

あなたウソペディアのこの記事を見ている。何かチンプンカンプンなことを述べているようだが、どうやらこの筆者の主張に従えば、この記事「芸術」も芸術であるらしい。なるほど、確かにユーモアを含む記事を書く行為は、ある種の創造的な活動であり、その産物も芸術ということはできるだろう。もっと詳細には、文章の芸術、文芸とも言えるかもしれない。

しかし、これを読んでいるあなたにも、別の作品の切り出し方を行う余地が与えられているらしい。そこであなたはこう考える。

ウソペディア全体を、ウソペディアンが建設しているバベルの塔、一つの芸術作品と捉えることもできるのだろうか。きっとそうであろう。何故ならば、ウソペディアの各記事は相互にリンクし合っており、一つの記事の内容を踏まえて別の記事が成立していることもしばしばあるからである。特に、初版投稿者が同一である記事群は、過疎ペディア故に手を付ける他のユーザーが少ないからか、全体を読むと相乗効果として深いユーモアが醸し出されるケースもままみられる。してみると、記事「芸術」が芸術であるのみならず、その初版投稿者が投稿した一連の作品群も芸術と見なせるのかもしれない。

ウソペディアだけでもこうして3段階の芸術レベルを見つけられたが、そもそもウソペディアはMediaWikiプロジェクトの一つであり、また巨大なインターネットの一部でもある。とすると、これらもまた芸術なのだろうか…。

あなたの思考を全て書き出すのは、ジョゼフ・ジョースターではない私にはできない業であるので、続きは好きなように想像して頂いて構わない。

脚注[編集 | hide]

  1. 物理学ではこれは観測者効果と呼ばれ、あらゆる観測において免れることができない何らかの効果が発生することが示されている。
  2. 特に、その作品が芸術家自身にさえ予測不能な挙動を示すときには。

関連項目[編集 | hide]