西南戦争
西南戦争(せいなんせんそう、別名:西南の役)とは、明治時代に都をどこに定めるかを起源として勃発した戦争である。
概要[編集 | hide | hide all]
当時はまだ薩摩藩という扱いであった鹿児島県は、貿易の利便性や自然環境の良さから鹿児島を都として定め、天皇を密かに連れて行く計画が進められていた。しかし、事前にその計画が漏れてしまい、ほとんどの藩から反対を受けてしまったためやむなく計画は中止せざるを得なかった。そこで新しく持ち上がった計画が長州藩のある山口県に都を定めようという計画である。鹿児島へ移行する計画に比べるとそこまで反対は出なかったが、無論これも大反対を喰らい中止する羽目となった。
戦争開始[編集 | hide]
犬猿の仲であった長州藩と薩摩藩は坂本龍馬の仲介もあり[1]手を組むことを決意する。そして同じ「都を移す」という目的を果たすため挙兵した。まず長州軍と薩摩軍は呉(広島県)近郊に集合する。その数おおよそ5万。彼らは弾薬庫などを襲い大量の鉄砲や弾薬を入手して京へと向かった。当然新政府軍が迎え撃つ。しかし政府軍はせいぜい1、2万程度しかおらず、いくら良い武器を揃えていたとしても多勢に無勢、京は数日で陥落してしまった。なお、新政府を嫌っていた国民たちからは大いに歓迎されたという。
戦争中断[編集 | hide]
京を落としたは良いものの、結局天皇をどこへ連れて行くかは決まっていなかったため、再び長州・薩摩間で揉み合いが発生する。その時に起こった中で特に激しい喧嘩として知られるのが池田屋事件であり、主に長州藩士を中心に多数の死者が出た。このままではまずいと思った長州軍リーダーである木戸孝允と薩摩軍リーダーである西郷隆盛は再び和平を結び、天皇を連れて行く場所は決まらなかったが無益な悶着は収まった。
政府軍の復活[編集 | hide]
一方政府軍は東京で徐々に力を蓄えており、東日本で生活する満20歳以上の健康な男子は出兵するよう徴兵令を出した。これにより総数は10万にまで達する。さらにイギリス、アメリカなどの支援を受け、武器の調達・食糧の補給など体勢を整え、反乱を鎮圧すべく意気込んでいた。そんなことは露も知らない反乱軍は京都に兵を留めたまま無駄に時間を過ごしていた。
政府軍の反撃[編集 | hide]
反乱軍が京の街でのんびりしていると、突然大砲の音が鳴り響いた。なんと、新政府軍が反乱軍目掛けて砲撃を仕掛けてきたのである。京の街は応仁の乱のように阿鼻叫喚と化し、反乱軍はまさに桶狭間の今川軍の如く、西へ散り散りとなって逃げ出してしまった。何とか姫路(兵庫県)で再結集し戦争に持ち込もうとするも、人数でも兵力でも劣っている反乱軍は手も足も出ず、ただただ西へ逃げるばかりとなった。
反乱軍への加勢[編集 | hide]
しかし、負けの続く反乱軍に思わぬ味方が現れる。近畿地方を中心とした農民たちが大規模な一揆を新政府軍相手に起こしたのだ。飢饉や税の高騰などもあったが、主な原因はもちろん京の街に大砲を放ったことである。これには批判が殺到し、政府の内部の人間も反乱軍に就く者まで現れた。このままではまずいと思った新政府軍リーダー・大久保利通は一度和平を求めるが鎮圧は難しく、西には反乱軍、東には一揆と政府軍は挟まれてしまった。やむを得ず南は四国へ動くが、ここであの男が復活する。
旧幕府軍の加勢[編集 | hide]
窮地に陥った政府軍に思わぬ吉報が舞い込む。なんと、静岡に隠居していたはずの徳川慶喜が元より長州・薩摩に対し不満を持っていた旧幕府軍の武士を集めて出兵したのである。流石は侍、旧幕府軍は瞬く間に一揆を鎮圧し、四国にいた新政府軍と合流した。農民には税率を下げるということで協議が成立したため、新政府・旧幕府連合軍は反乱軍の鎮圧の一点に力を注ぐこととなった。これに大慌てした反乱軍は下関(山口県)まで逃げ、長州藩の勢力を総動員して対抗することとなった。戦は大荒れし、互いに多くの犠牲者を出したが辛くも新政府軍の勝利に終わり、長州藩は降伏した。
戦争の終焉[編集 | hide]
薩摩藩は熊本、鹿児島、長崎から更に兵を集め、博多(福岡県)付近で政府軍と最後の戦を行った。しかし長州藩という大きな後ろ盾を失った薩摩藩に勝ち目はなく、この戦いは政府軍があっさり勝利した。ここに、ようやく西南戦争は終わりを告げた。
処罰・その後[編集 | hide]
木戸孝允は戦争中に病死したため無罪となり、西郷隆盛は最後の合戦で自刃したため晒し首とされた。反乱に参加した多くの人物が自刃したため処罰者は多くなかったが、結果的に武士の地位は下げられることとなったが、旧幕府軍の士族たちは華族に昇格となった。この後、新政府は着実に力を付けて行き、日本を発展させていくこととなる。
脚注[編集 | hide]
- ↑ 彼も土佐の人であったために都が近くなることを望んだとされる。