開発独裁

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』

開発独裁(かいはつどくさい)とは、発展途上国において民主主義よりも効率的に経済発展を実現する手段である。

概要[編集 | hide | hide all]

古来、民主主義的な意思決定プロセスは極めて煩雑・長期化する傾向があるため、民主主義に対する一定の規制を求める考え方が存在してきた。古くはプラトンの哲人国家に始まり、近代においても、イギリスをはじめとする多くの民主主義国家では、直接民主制に対する間接民主制の形を採用することで、マルサスの指摘通り指数関数的に増加する人口の分だけ増す筈だった意思決定の煩雑性を大幅に削減することに成功している[1]

民主主義的な意思決定のプロセスは、ともすると投票の仕方から大真面目に議論しないと始まらないウィキペディアンの例のように煩雑・長期化しやすいため、迅速な発展が望ましいと考えられるコミュニティには必ずしも適切ではないという意見が根強い。そこで、特に発展が急がれる発展途上国においてしばしば導入された政治体制が、開発独裁である。

特徴[編集 | hide]

開発独裁はトップダウン式の発展システムであり、指導者を含む権力階級・知識階級が民衆を誘導して国策として国家を発展させるという仕組みである。原則として民主主義的な政治システムは規制ないし禁止され、国家の指導層の主張がそのまま経済政策として投入されていく。簡単に言えば、「頭が良くて力もある指導者が言うことだから、従えばきっと国家は繁栄する、実例なら間近にある」という一声によって、反対派を時には粛清しながら、半ば強引に経済発展が推進されていくわけである。

多くの場合は開発独裁といえば20世紀のアジア諸国、特に東南アジア諸国や韓国における政治体制を指すが、この意味での開発独裁は18世紀の啓蒙絶対君主の時代に最も早い形で、ドイツ(当時はプロイセン)やロシアにおいて出現している。産業革命以前のため、このケースでは大量の無駄の生産経済指標の水増しという空虚な発展よりはまだ健全とも言える、軍備の近代化・知識層の近代化に力が注がれた。

状況が変わって来るのは、19世紀に入って開発独裁を導入した日本においてである。選挙権を著しく規制することで民主主義を形骸化させつつ、万世一系の天皇を戴くことで強権的な富国強兵殖産興業政策を推進した日本の場合は、日英同盟などの効果も重なり、何とかかんとか帝国主義列強のはしくれぐらいにまでは登ることに成功した。しかしながら、皮肉にも更なる発展は第二次世界大戦敗戦後の民主主義時代まで待たなければならなかった[2]

20世紀に入ってからの開発独裁は、インドネシアのスハルト政権、マレーシアのマハティール政権[3]フィリピンのマルコス政権、シンガポールのリ・クアンユー政権、韓国の朴正煕政権など、アジアの新興独立国の多くで採用され、これらの諸国は中堅国家程度への発展に成功している。多くの国で、経済的に裕福になって暇を持て余し始めた国民の意識が、哲学への素養が欠けていたため[4]か、政治へと意識が向かい、民主化が進んでいったのも特徴である。

ヒトラー政権下のナチス・ドイツやスターリン政権下のソ連も、指導者が計画的に経済発展を推進したという意味では、開発独裁に類似した特徴が見られる。但しナチスの場合は世界恐慌で急増したルンペン・失業者と膨れ上がった賠償金への対策、ソ連の場合は共産主義国家の樹立と発展が目的であったため、他の開発独裁国家と比較するとやや方向性が異なる。両国とも、この時点でそれなりに発展していたことも、他の開発独裁国と比較した相違点である。

脚注[編集 | hide]

  1. 一方でこれをルソーのように「選挙の時だけ自由」と皮肉る声や、現代のインターネット政党のように部分的直接民主制の導入を図る政党も存在する。
  2. とはいえ、日本の高度経済成長期55年体制の成立により長期保守政権に入っていった時期でもあるので、ある意味では民主主義は名ばかりであり続けた(1と1/2政党制)と解釈することも可能である。
  3. ルック・イースト政策で有名。
  4. ギリシャ哲学は古代ギリシャの裕福な有閑階級から生まれた。

関連項目[編集 | hide]