青春

出典: 究極の八百科事典『ウソペディア』

青春(せいしゅん)とは、及び年期にもたらされる若さゆえの快楽と、その後の大きな喪失感の事である。

概要[編集 | hide | hide all]

「青春は太陽が暮れた季節
青春 について、青い三角定規

青春とは、若さを前面に出すことができる10代から20代、特に高校生大学生が経験する人生の大いなるである。その快楽は、恋愛、特に初恋に象徴されるような逆らい難い魅力、抗いがたい重力を持っており、正にその渦中にいる人々から見れば楽しくて仕方がない性質のものである。

しかし、青春とは詰まる所その後の人生体験の縮図である、という指摘もあるように、青春は過ぎ去った後の立場から見れば、最早戻って来ることがない数多くの初体験の塊であり、その後の人生がマンネリな青春の焼き直しでしかないことを痛感させる性質のものである。

それ故か、青春はその渦中にある人は自覚なく[1]、過ぎ去りしものからのみ羨望される、一種ののような存在にもなっている。

爽やかな青春[編集 | hide]

青春には、ある種の爽やかさが含まれている。青春の渦中にある若者は純粋で、意識が高くを追うがインテリのように理屈をこね回すことのない、直情的な理想追求者のイメージが持たれがちだからである。

「富士には月見草がよく似合ひ、青空には青春がよく似合ふ。無限に広がる青空と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの若者は、よかつた。」
青春 について、太宰治

文豪が青空と青春を対置したように、青春には爽やかなイメージがあり、青春イメージを強調するカルピスCMなどでも、常に青空、晴れ晴れとした爽やかな空が写し込まれている。

これらは全て、青春を後から回顧する人々のイメージとして定着しており、それがまた人々が後から振り返って青春に再び引きずり込まれそうな魅力を感じる一因となっている。

現実[編集 | hide]

しかしながら、実際の青春は、もっと遥かにドロドロである。

カルピスは甘いよりも粘りっこく、青空もに曇り、恋愛においては駆け引きも行われ、肉体関係なども当たり前に見られる[2]。不思議なことに[3]18でを覚えた大学生達はベロンベロンに酔っぱらって渋谷の街を汚し、理想よりも受験就活が学生たちを駆り立てるモチベーションとなり、人生の春は、言い換えると若さが陰っていく季節となっているのである。

中には理想を追求しているように見える若者もいるが、彼等所謂意識高い系も、実際に追求しているのはインスタ映えFacebookのいいねを目的とした、虚栄心自己顕示欲の充足であり、その正体は社会的に意義のある大義などではなく、ただの小市民的で通俗的な自己満足である。

不思議なことに、若者たちはよりもそれを熟知しているので、快楽のさなかにあって青春の自覚はないが、年を取ると何故かそれを忘れ、「今時の若者は」とボヤきつつ、密かに青春を羨むようになるのである[4]

喪失[編集 | hide]

青春はやがて失われる。それは、経験を重ねることによって、初体験に巡り会う頻度が減っていくからである。繰り返される経験は、「初体験」という体験の喪失をもたらす。これが青春の喪失の正体であり、失われた青春は、二度と戻らず、大人になった若者はその喪失感を埋められずに余生をモーレツ社員か何かになって潰していくのである。

脚注[編集 | hide]

  1. 哲学かぶれでもない限り、楽し過ぎて自分が青春のさなかにいる自覚を持つゆとりすら持てないため。
  2. プラトニックな要素はどこへやら。
  3. 本来は20歳まで知らない筈なのに。
  4. 都合の悪い事は忘れてしまうのだろう。記憶の美化といえば響きは良いが、それは実際には記憶の劣化でしかない。

関連項目[編集 | hide]