音楽
概要[編集 | hide | hide all]
音楽とは、音を入れたり、入れなかったりすることで成立する芸術である。古くは葦笛のような身近な植物を材料にした笛や、単純な打楽器などで奏でる音に始まり、やがて弦楽器や金管・木管楽器などの高度な楽器が発展し、今ではコンピュータが奏でる人工的な音なども材料として作り上げられる。
現在主流となっている西洋由来の音楽は、グレゴリオ讃歌などのキリスト教音楽から発展し、ルネサンスに近代的な記譜法が完成し、ピアノのような近代的な楽器が登場して所謂クラシック音楽が作成されるに至って、一旦の完成を見た。その後は完成した古典を打ち壊す試みが進み、不協和音を多用したリヒャルト・ワーグナー、アフリカのリズムやビートを取り入れ、ニューオーリンズのアフリカ系移民を中心に発達したジャズ、反抗的なパフォーマンスの目立つロック、韻を多用するラップなどが登場して現在に至っている。
古典を壊す試みの中には、意図的に音を取り入れなかったり、人工的な音声を吹き入れたりする試みなども見られたが、音楽は視覚芸術に比べると全般に保守的で、今尚500年前の記譜法をベースとした音楽が主流となっている。
音楽と芸術[編集 | hide]
芸術としての音楽は、古典を打ち壊すべく日常の音を取り入れたり、人工的な正弦波形音だけで構成したり、近代の記譜法がもたらした有理数比音長・不連続音階の制約を打ち壊そうとしたり、機械に全自動演奏させたりなどの試みによってそれなりに発展してきたが、絵画におけるピカソやデュシャンの理解者、所謂「造詣の深い」人々ですら結局理解しようとしなかったために、現代音楽の主流の地位を獲得するには至ってはいない。
音楽と商業[編集 | hide]
音楽の主流を規定しているのは、結局のところ商業である。視覚芸術であればメディアミックスなどの大胆な技法を取り入れることも許され、それなりに希少性が認められてオークション商売も成立するが、音楽においては希少性よりも、売り上げたレコード・CD・YouTubeでの再生回数が評価指標となっており、最も反抗的なロッカーですら、事務所とプロデューサーの意向に反した音楽を生み出すことは許されていない。
事務所に所属せず、趣味で作曲・演奏するのであれば、あえてこの規制を破る試みも少しは許されるが、それすらも結局はYouTubeにアップされ、YouTuberとしての商品になってしまうので、再生回数が指標となり、流行ればやっぱりビジネスとして回収されてしまう。
このため、商業的な現代音楽は、たとえ古典に対して反抗的なポーズを取ってはいても、結局のところポーズ・パフォーマンス以上にはならず、記譜法によってもたらされた最も基本的な枠組みは、その基盤においては崩し切れずにいる。
伝統音楽[編集 | hide]
一方で、商売性の薄い、非西洋にルーツのある伝統音楽も存在する。例えば日本の雅楽などはその代表例であるが、こちらについては伝統を専ら維持するだけか、あるいは近代音楽の要素や他メディアの要素を取り入れて「現代化」するのが関の山であり、音楽の世界に限って言えば、伝統の融合を超えて伝統を壊すには至っていない。
音楽は何故保守的なのか[編集 | hide]
結局、大衆が音楽を芸術としてよりも快感の対象としてしか見ていないからである。日常の音だけで音楽にしたものや、音のない音楽などは快感をもたらさない。それ故売れず、音楽を支配する商業ビジネスからすれば、供給する理由がない。こうして、音楽はどうしても保守的になってしまうのである。
これを、視覚芸術と比較して考えてみる。視覚芸術の場合は、快感よりも、そして写実性よりも、ある意味では理解の範囲を超えた新規性が評価の対象とされており、それを「理解」することが教養だともみなされるので、商業的に見てすら、斬新な芸術には一定の需要がある[1]。それ故、新しい形であれ積極的に取り込まれる。
一方、音楽は教養人が認める音楽は200年以上前のクラシックに限られ、大衆にとっては快感の対象でしかないので、快感をもたらさない斬新なだけの現代音楽などは、誰から見てもナンセンスでしかなくなる。こうして、結局音楽は保守的になってしまうのである[2]。
こうして、視覚芸術はかつて「美」に至上価値が置かれていた頃から大きく発展したが、音楽はその段階をまだ抜けきれていないのである。